2019年3月4日月曜日

【舞鶴に行って来ました】

このブログの最後の記事を書いて4年が経った。
 この間、私の住む熊本の大地が大きく揺さぶられ、あらためて「平穏」の有難さを見に染みて感じ、その一年後には長年勤めた職場を退職し、新しい仕事に就くことになった。それからさらに1年経とうとする頃、4歳上の兄が突然亡くなった。
 兄は、36年前に61歳で亡くなった父よりは、少しは長く生きたのだが、義姉、甥姪たちにとっては、そして本人にとっても短すぎる人生だったに違いない。
 そして、私も昨年父の年齢を超えた。

 4年前に書いたが、父の手記には帰国時の様子が、ナホトカから乗った「遠州丸」という船名、「伝馬船」で上陸したことしか書かれていないので、上陸後の様子が少しでも分かればという思いから、一度舞鶴を訪れたいと思っていたが、先月ようやくその機会を得た。

  出張の合間の短時間だったが、上陸地点を見下ろす丘の上に置かれている舞鶴引揚記念館とその敷地となる引揚記念公園に行くと、帰国から故郷に向かうまでのおおよその様子がうかがえた。
 上陸地点は、舞鶴湾の一番奥の北側に山を抱いた波静かな入江。入江に着いた引揚船から、はしけに乗り換え、現在は合板工場があるあたりの桟橋から上陸。受入れ施設で身体検査と、生前の父の話によると、抑留中受けた共産主義教育や思想のチェックなどを受け、帰郷を待ったようだ。


 舞鶴引揚記念館に入ると、まず目を引くのは、当時のソ連邦内にあった収容所の位置図。特に連邦中西部の内陸部すなわちシベリアの収容所が多いのが目立つが、父が約2年間を過ごしたタガンログは、下の地図上一番手前の黒海に連なるアゾフ海の湾奥の「ロストフ」とされている場所の近く、現在もたしかロシア軍の軍港があるたタガンログというところだ。
 床に貼られた大きな地図を見ると、はるばるユーラシア大陸を横断して来たというのがよく分かる。
 展示室に入ると、ラーゲリ(収容所)での厳しい生活をしのばせる手記などの展示も多いが、現地の身近にある材料ながらも丁寧に作られた麻雀パイ、収容生活に潤いを与えたであろうトランペットなども展示している。
 さて、父は昭和23年7月14日に舞鶴湾に到着した「遠州丸」から、上記の受入施設近くに上陸したが、検疫や様々な手続きや調査が行われたものと思われるが、手記には7月18日に郷里の熊本に到着したされている。




(引揚者に配布された「引揚援護の栞」の一部)

 舞鶴からの各地に向かう「引揚列車」の時刻表も展示されているが、昭和24年9月15日改正のもの(で、前年のダイヤがどうだったかは不明)だが、14:00に東舞鶴駅を発車し翌日の16:16に熊本駅着ということなので、7月17日の午前中まではのおおよそ2日間は舞鶴にとどまっていたことなる。
 
 父の手記は、帰国後記憶が新しいうちに書き留めておこうとしてできたものだが、引揚記念館には、抑留中に白樺の木の皮に書き溜めたものなどもあり、もう一度ゆっくり訪ねてみたいと思っている。
 また、抑留された方々の多くがすでに亡くなり、引揚記念館に所蔵されている資料の劣化(主に紙の資料)も進んでいることから、これはやはり、舞鶴市だけにお任せする問題ではなく、貴重な資料の保存のため協力しなければならないものと思いながら、資料館を後にした。


2015年1月4日日曜日

23 ダモイ

21.ダモイ

 だまされて又だまされつゞけた我々の東京ダモーイも、愈々実現の日は未だ忘れもしない六月一日の作業終了後。皆作業場よって来てから入浴場前に整列、所長アリルエフ所長よりスターリンの命令を達せられたときの感激。
 眼頭がジーンとして涙がポツリと落ちた。零下30度の日に一日中火の気もない雪の中で働いた時の苦しみ、出来さうにもない仕事をロスケにダバイダバイ(ヤレヤレ)とせきたてられた時、焼けるやうな暑さの時の土工作業。眼がまふ様に高い格納庫の屋根の上の作業の時の苦しさとの闘ひは、總て此の日歸る日を夢みての闘ひであったのだ。
 数回もだまされた結果今年一杯は大丈夫だ(と)思ってる連中も大分あったのだが、それだけに急に發表された時の感激は強かった譯である。命令を聞いたときは嬉しかった。そしてその後、いろいろの点に於て歸る準備が一つ一つ出来上がって行くのをみて、今度こそは絶対だと思った。然し或る者は、途中シベリヤの何處かで下車を命ぜられるかも知れぬ、と云ふ者も居た。此の話だけはそんなことは絶対にないと云ふ自信が持てなかった。

 愈々出發當日になって朝早くから荷物を纏めたが、唐きびの引割粉の黄色いお粥が、あまり嬉しくて喉を通らぬものが多くて炊事(場)の前は残飯が随分出てゐた様だ。自分は腹具合が悪くても二人分食って、もう一杯いかがですと云はれたが、もういけなかった。
 汽車の中の煙草が心配だったが、甲佐出身の西村則義さんより澤山分けて貰って助かった。

 門の前で所持品検査されて、もう二度と入る事のない門を通った。内地に歸ったらこっちの方を向いては小便もすまいと思った。
 町を歩いて駅に行ったが、タガノロフ市(に)到着して見知らぬ此の町を歩いて収容所に来た時の気持ちとの違ひ。行きすれあふロスケが「トウキョウダモイダ?」と聞く。「ダーダー」(ハイハイと云ふ事)と答えると、「ハラショー」「イイナア」と云って、通り過ぎて行くロシア人一人一人迄、我々の東京歸還を喜んで呉れるのだ。個人的な感情のよさの現れでなくてなんであらう。

 駅では二年前に来た時の様な六〇頓貨車に七〇名位乗せられた。然し今度は車内に便所も何もついてゐなくて、小窓も釘づけもしていない。来るときの感じの悪さに比較してみると雲泥の差だ。
 六月四日夕刻愈々一生忘れる事の出来ないタガノロフ市ともお別れして、二年振りのシベリヤ旅行の旅に出發した。
二年前は暗い旅行だったが、今度は皆晴れやかな明[]い気持ちだ。来る時みたいに歩哨も毎日毎日点呼も取りに来ない。ウロ覺えのある景色を眺め乍ら走るが、汽車がのろい様な気がして仕様がない位だった。
 シベリヤの草原、松の林、コルホーズ(集團農場)等ロシヤの土地は実に広い。実際に眼でみてこんなに広いものかと思ふ位。そして雄大である。内地の景色に比べると実に殺風景でまた変化のないことには驚くだらう。ボルガ河、ドン河、ウラル山脈、オビ川、エニセー河等も今度(は)充分眺めて来た。バイカル湖はイルクーツク邊り、実に綺麗なところだ。来る時程寒くなかった様だった。
 列車運行中にロシヤの囚人列車と追いつ抜かれつで来たが、奴等の待遇は実にひどい。我等日本人があれぢゃ可愛さうだと思ふ位だった。それに又樺太への移民列車と並行した同じ駅に停車すると夕方なんぞは車より降りて移民團の女とロシヤの社交ダンスを踊ってゐた者あった。

 列車も二十五日を費して約一萬数戦粁を走破し、我々をナホツトカの集積地へ送届りけて呉れた。ナホツトカでは第一、第二、三、四と四つの収容所があり、ダモイ(歸ること)の為にナホツトカに着いた者は第一収容所に入り此處で被服の滅菌、入浴を終ると、二、三日してから第二か第四の収容所に入れられる。此處では被服の修理交換だ。そして始めて第三収容所に入るのである。
第參は仕上とも云ふべきもので、税関の検査を受けた上で被服程度の再検査があるだけで、あとは船が来れば乗れる様待機の姿勢で居るだけだ。
 一番良かったことは第一、第二、第四の様に使役もなく、うるさい共産教育のないことだった。久方振りにのんびりした気分が出た。第一、や第四でやられた様な(教育があったな)ら少し赤くなりかけたものでもうるさがって、反動が強くなると思った。

 愈々ソ聯と離れる日が来た。晝頃所内の広場で復員式が挙行された。兎に角歸ったら、天皇制を打倒して働く者の民主的な国家を造れと云ふのだった。波止場まで歩いたが、船が乗る為に我々が整列してゐるのに、波止場では直ぐ横で日本人が黙々として土工作業をやってゐる。こっちは歸ると云ふのにそれを見乍ら仕事してゐるなんて、彼らの気持ちは。
 遠州丸と書いた船の姿をみた時の喜び、甲板に上がって日本人の船員を見た時、日本式の米の飯にみそ汁、沢庵、梅干を食った時の懐しさ。そして内地のいろいろの事を想像し、ロシヤでの苦しかった事、面白かった事を頭に浮かべてシベリヤの空を眺め日本海を横断する船足ののろい事には全く驚いた。

 内地の山々が見えだし澤山の木、竹薮をみ、やっぱり日本だ、日本はいゝなあーと一番に思った。
 遠州丸より伝馬船にうつりそれから上陸した時の喜びは。昭和二十參年七月十四日より内地での生活第一日が開始された譯だ。兎に角之から頑張らう、復活だ。

 七月十八日我が家に辿り着いて以来早5ヶ月と十数日は過ぎ二十四年の元旦を迎へるに至った。二十四年の年頭に當り感想をつれづれなるままに記さう。
 あゝ、今年一杯はおろか、次の正月も此處で迎へねばならぬかと、幾らか捨鉢気も起りかけてゐた二十參年五月、急に収容所内にダモイ(歸国)の噂が持ち上がった。然し千參百の戦友も皆明るい顔になったが未だ何處かに一抹の不安が漂って居た。
 それが六月一日だったろうか、所長がスターリンの命令を達した時の感激。眼がジーンとなって涙が一滴二滴ひとりでに頬をつたった。みんながその日をたった一つの目標に朝鮮以来、作業に、給與に、天候に、我が体の病気と闘ひ續けて来たのだった。其の日までの苦しみが未だ昨日の様に想ひ浮かんで来る。
 復員後約半年温〔か〕味のある我家で暮し、此處に新春を迎へたが、ともすれば今の生活になれ怠惰になりかける気持、これぢゃ確かにいけないと思ひ乍らもどうにもならない。少なくとも俘虜生活をやった我々は「俺は俘虜だ、何をやっても駄目だ」と精神的ひがみを持ってはいかぬ。あゝ生き通した甲斐があった、之から大いにやらうと家に歸りついた時の気持、それを断然忘れてはならないと確信する。
 之からは日本人同志のために今までの苦しみ、あらゆる生に対する苦しみと闘った体験を生かして歸り着いた時の気持を永久に忘れずに大いに復興に、人生の再出發に奮闘せねばならぬのだ。その為に現社會の様相をじっとみつめてゐなければならない。大いにそれを勉強してこそ始めて、これからの実社會にいろいろの体験が生かされるのだと思ふ。

 元旦の朝から晝、夜、と酒の連續だ。飲める酒なら大いに飲むべし。生き返った最初の元旦だもの。復員當時みたいに一寸飲んで心臓が參る様では飲まぬに越したことはないが、本年こそは体のコンディションも波に乗ってきた今日、我等の生涯の最良の年たるべく、職務に、家庭に大いに勉強しなければなるまい。
 
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 どこの港に帰ってきたのか、そして、上陸直後の検査などのことについても、まったく書かれていませんが、当時、シベリアからの帰還船は、ほとんど舞鶴港に入港していたこと、「遠州丸」と7月14日という日付から、舞鶴港には間違いないものと思われます。
http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/kiroku.htm
http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/hikiagesen.htm

 以上で、父のシベリア抑留記は終わりになります。これまで讀んでいただきありがとうございました。
 私自身、この父の手記を通じて、あらためて戦争、そして戦後日本が経験してきたことの多さ、大きさを知ることができました。
 これからも、機会を得て、こうした知識も深めていきたいと思っています。


2014年12月28日日曜日

【ちょっとお休み その2】 本当のシベリアは・・・

 今週も、お休みをいただいて・・・。

 父が収容所生活を送ったタガンログは、比較的に温暖で、どちらかといえば都市部ということなので、恵まれていたのかもしれませんが、バイカル湖周辺やハバロフスク北方のツンドラ地帯にも多くの日本兵が抑留されていました。
 そこでは、日中でもマイナス30℃とか40℃までしか上がらないような、厳冬の地域もあり、そこでは、たくさんの方が亡くなっています。このような地域には、あまり人も住んでおらず、物資も少なければ病院もないわけですから、ほんのちょっとした病気や怪我でも命を落とすことになったのだろうと思われます。

 このような地域に、抑留された方の手記もたくさんのあり、私も最近少しずつ読んでいますが、中でも、高橋秀雄さんという方が書かれたものをご紹介したいと思います。

「私のシベリア抑留記」
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

 この方は、バイカル湖西方のイルクーツク地方のチュレンホーヴォの収容所で、昭和20年の暮れ頃から24年の秋まで抑留生活を送られました。
 シベリア鉄道での移動途中で悩まされた虱の話などは共通ですが、日本軍時代から続いた「初年兵苛め」をはじめとする階級差別と、その反動として過激化した民主運動(捕虜同士の殺人も起こった収容所もあったようです)のことなどは、父の手記からはわかりませんでした。

 「シベリアに護送された時軍隊戦友が四千余人だったが、無事帰還できたのは二千四百余人であった。」という記述があります。

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/chihou/irukutuku/index.html

 厚生労働省のHP(埋葬津別死亡者名簿)で公開されている資料を見ても、どれが、チュレンホーヴォの収容所かよく分かりませんが、記事中に出てくる亡くなった「下山一等兵」の「下山」を頼りに、名前を探すと1人だけ出てきます。

第32収容所・第6支部グリシェフ村 「下山勝治」さん
http://www.mhlw.go.jp/topics//syakai/soren/chihou/irukutuku/html/4052.html

 仮にこの「第32収容所」がチュレンホーヴォの収容所だったすると、収容所内に埋葬された方々がおおよそ800名、近くと思われる病院で死亡された方が800名弱ということでこれに符合するようです。
 とても厳しい収容所生活だったことでしょう。 

2014年12月21日日曜日

【ちょっとお休み・その1】 タガンログについて

 これまで、4ヶ月にわたっって、父の手記を公開してきましたが、ここで、ちょっとお休みをして、父が、抑留生活を送ったタガンログという街をご紹介 ~ というほど詳しくはありません。もちろん行ったこともありません。 ~ したいと思います。

 「シベリア抑留記」としてきましたが、父が抑留されていた収容所があったところは、黒海に繋がるアゾフ海沿いに位置しています。


 17世紀の終わりに、ピョートル大帝がロシア艦隊の基地として作った街で、19世紀には交易で栄えたそうで、現在も港湾を生かした産業が盛んな地域だと思われます。
 1941年から43年までドイツ軍に占領されていた時期もあったようです。

 人口は約28万人。チェーホフの生まれ暮らした地として有名で、生家のほかにミュージアムなどチェーホフゆかりの施設を含め観光スポット多いようです。

http://www.taganrogcity.com/index.html


 厚生労働省が公表している資料(元はソ連邦が公開したもの)によると、タガンログ周辺では、250kmほど北のドゥルシコフに野戦病院があり、106人の死亡者あったとされています。また、さらに北へ500kmのハリコフという街の墓地等には50名を超える死者が埋葬されたとのこと。
 そのほか、西へ340kmのサポロージェ、さらに北西へ300kmのドニエプロペトロフスクにも収容所があったとされています。

厚生労働省HPより


2014年12月13日土曜日

22 壁新聞 、 23 生産会議

22.壁新聞

 ロシヤの国は本當に壁新聞を十分に活用してゐる。
いろんな工場の状況や思想教育、生産促進対策等、内地の新聞紙大の額の中に絵迄入れて各工場等、工員休憩所に掛けてある。我々の収容所でもロスケの命令で中隊毎に壁新聞を作ることになった。
 原かう[稿]は、中隊全員に募集して、その中より選定して壁新聞に發表する。此の中に論文あり、中隊の声として隊員の要望事項あり、文藝欄あり、生産促進の対策についての意見あり、と云った具合で、その中隊の壁新聞を読めば、大体中隊の空気なるものが察しがつくと云ったところだった。
 それに又漫画新聞がある。之は絵の上手なのが、漫画をその時にマッチするように書いて、面白く宣伝しやうと云ふのである。
 之等は一週に一度新しいのと貼り代へた。この様な壁新聞、漫画新聞なるものは皆から次々に集まってくるところの原コウに依って完成してゆくのであるから、工場なら工場の、中隊なら中隊の各人かくじんの盛り上る声である譯だ。それに対して経験の優れた人、学識のある人、即ち指導者がよい結論を與へて、善導してゆくならば確かに民主主義である。
 
 だから、壁新聞は現在の大江工場あたりも使用して大いに啓蒙して行くならば面白いであらうし、又工場全体の空気がどんな状態であるかも想像がつく事であらうと思ふ。


23.生産會議

 ロシヤでは、一月に一回乃至二回、生産會議なるものを開いてゐる。
 工場内に働く勞働者は作業班が編成されて、班長以下五、六名が一グループになって一つの作業に従事してゐる。そう云ふ作業班が幾つか集まって工場作業が行はれてゐる譯だ。
そして一月の中には各作業班の仕事の完遂量がパーセントに依って發表される。百パーセント以上もあれば以下もあるが、之等の作業班長が集合して、その月の仕事完遂量に対していろいろ意見をのべ合ふのが生産會議である。
 自分の作業班は今月はどうしたからこんな良パーセントを貰へたか、又は自分の作業班はどの点が悪かったからパーセントがよくなかったとか、今後の生産をよくするために作業班長若しくは班の代表者が意見をのべ、その対策を研究するのが生産會議であった。
此の時に作業成績の良かった班は賞められるし、悪かった班は叱られる。ロシヤの様な總てが国民によって管理されてゐるところは仕事量が制定されている関係上、こうやって生産能率の昂揚を図ってゐる譯だ。

 我々の今働いてゐる工場でも之を真似る必要はないが、右の様な計画を立ててみたら、未だお互ひ同志の手で生産能率は上昇するのでなからうかと思ふ。
現在行はれてゐる課長打合せ會議も悪くはないが、組長以上位集めてザックバランに意見述べ合ったら面白いだらうと思ってゐる。


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 父は戦前、大蔵省専売局に就職し、戦後も定年まで、専売公社(のちの日本たばこ㈱=JT)に勤めました。
 戦後、いつ頃から復職したかは定かではありませんが、ソ連から帰国すると熊本の実家に帰り、そのまま、熊本の工場に勤務したものと思われます。 文中に出てくる「大江工場」は、後の「熊本工場」(熊本市中央区大江、県立劇場前)のことです。
 たばこ工場は、喫煙者数の減少もあり、九州では、福岡、大分(臼杵)などとともに熊本工場も閉鎖となり、今では北九州工場一つだけになっています。

 父のソ連での経験がどの程度、帰国後の現場で生かせたのかは分かりませんが、「生産會議」を経験した多くの日本人が、帰国後に生産現場戻っていったわけですから、ひょっとして、その後の高度成長や「カイゼン」に繋がって行ったのかもしれません。

2014年12月6日土曜日

21 かっぱらいについて

21.かっぱらいについて

 現在の日本でもさうだが、泥棒や空き巣が横行してゐて一寸の油断も出来ない。

鉄のカーテンの内でも、こそ泥は非常に多い。と云っても勞働者や各個人々々の家へ侵入すると言ふことは、良く知らないが、我々の居たタガロノフ市の状態は、国家管理になってゐる會社が大分あったが、其處にある材料、製品、または糧秣等ちょいちょいロシヤ人が持って歸って了ふ。そしてそれを闇市場へ持って行って売るか、物々交換をやる譯である。

我々が働いてゐた飛行機試作工場内では、捕虜を監督する立場のロスケが大きな闇を平気でやってのける。トラックで石炭でも運搬する様な場合には、石炭持出證明は正式に書いて貰って闇にならないが、其の石炭の下に鉄板の広いものを隠したり、板類を忍ばせたりして持出し、闇値で売り飛ばして私服を肥やしてゐる。その仕事に我々もちょいちょい手伝はされた。
材木工場では工場の外柵から潜り込んで、材木を引きずり出して、之又闇市へ売って来る。停車場等に貨車が停車してゐると、中に糧秣でも積んであれば、歩哨の眼を盗んでちょこっとかっぱらっていゆく。子供だからと思って油断してゐると、大人も顔負する位の大仕事をやり出すから叶はん。
貨車等板までひっぱいで中にもぐり込み麦等大量[]かっぱらふのをみたことがある。煉瓦工場では採集した土の乾燥をさせるベルトコンベアーを巾が二、參尺の長さか何十尺と云ふものをごっそり持って行って了はれて、早速明朝より仕事が出来なかった。
ロシヤの警察は此の様な時にはセパードを使用して犯人を捜索する。コンベヤーの時は犬の嗅覺によれば海岸まで運んで舟で逃げたらしいことが判明した。人殺しはたった一辺だけ目撃した。言葉も字もはっきり判らなかったが、警察力は戦前の日本程にないだらうと思った。

ロシヤ人の間に以上の様な闇やかっぱらいがはやるので、我々も大分得をしたこともある。我々の監督が闇をやる時には、それに手伝ひをして、何か分け前を貰ふ。それにパーセント迄増して貰った自動車積み込みの作業では、砂運搬でもやる時は一日四台を目的地に運べばいいものをその四回を早く終って、あとは一、二台余計運搬し民間に横流ししてそれ相當のルーブル(円)を貰ふ。それに此の時の往きかへりには街から海岸へ行く人、海岸から街へ出る人を十円均一でトラックに乗せてやり、之だけでも五、六回往復すれば相當の額に上る。こんな時には運轉手がご馳走して呉れるか現金を分けて呉れるので、我々は大いに助かったのだ。
収容所内でも硝子がわれりゃ工場から持って来い、電球が切れたら支給して呉れ、と請求すれば工場に澤山あるから持って来い、とロスケの幹部が言ふので、何とかして必要なものは工場の品物を収容所に運び込んだ。収容所に是非必要なものをかっぱらって来れば夕食を余計に呉れる。そして大体揃って不便を感じなくなると、工場からの物品持出しは刑法に引っかかるから絶対に持ち出してはならない、と注意される。丸で泥棒の養成所みたいだった。

或る霧の深い日に、自分の作業班八名だけでトラック二台に便乗してタガノロフ駅より煉瓦工場に石炭を運搬した時には、霧の深いのを幸にして、径七、八寸の丸太二米位の材木を石炭の下に埋め込んで、知らぬ顔をして構内を出て了ひ、バザール(闇市場)の前迄来て掘り出して二本八〇円で売り飛ばし、黒パンの大きい奴を買って食ったこともある。此の時は運轉手と監督は20円ずつ位握らせたら上機嫌だった。
又線路工事をやってゐる時には、枕木の腐食したのを掘り起こすと、何時の間にやら子供が持って行って了ふ。木材類はシベリヤと違って、一寸した街中だから実に値が高くて、薪類に不自由してゐたからだらう。石炭なんかも見張り員なしで野積みしてあれば忽ちかっぱらわれて了ふ。

以上の様な状態だから工場の守衛は皆小銃持って、兵隊の歩哨みたいに動哨してゐるし、糧秣倉庫、駅の構内等には必ず小銃を持った監視が立ってゐる。タガノロフ市に到着した當座は我々捕虜が行ったので特別警戒してゐるのかと思ってゐたのだが、何のロシヤ人事態を監視してゐたのである。同じ国民同士であり乍ら小銃に実砲迄装填して監視せんでもいいんぢゃあないかなと思ふと一寸変な感じがした。

では此の現行犯で捕へられた者の罰はなかなか重い。特に糧秣関係の犯罪はひどいさうである。体刑の三、四年は普通らしい。一寸重いのは總てシベリヤに送られて強制勞働収容所に入れられて兵隊の歩哨に剣突きつけられながら重勞働に服せねばならないのだ。ロシア人は一年二年の懲役は何とも思っていない。

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「現在の日本でもさうだが」というのは、父がこの手記を書いていた昭和23年の暮れから翌24年の初め、まだまだ戦後の物資不足が続いていたころでしょうから、「闇市」もあったでしょうし、かっぱらいも多かったのだと思います。

父のいた収容所は、前にも書いたように、黒海に続くアゾフ海に面する軍港都市にあったので、上記にも出てくる工場などもあり、比較的に物資もあったので、「横流し」などで得たお金で、パンを買ったり煙草を買ったりできたのだと思います。
こうしたこともできない環境の収容所で生活された人たちは、ただただ厳しい生活を送られていたのではないでしょうか。

2014年11月29日土曜日

20 教育

20.教育

我々同胞百何十萬をわざわざシベリヤ、ロシア本国に莫大なる輸送費と時間を費やして引っ張り込んだのかよく考えてみる時に、人的資源の補充、之もあるだらう。然し何と云っても共産教育が最も大なる原因だらうと思われる。では我々は在ソ中には今迄書いた様な勞働に服務させられて来たが教育にどの様な手段で手を打たれたかを述べよう。

朝鮮で収容されて以来タガノロフ市到着迄は思想教育なるものは全然施されなかった。タガノロフ市でラボータ(作業)やりだしてからボツボツ始まった。
日本新聞と云って日本時俘虜向にハバロフスクで發行した日本語版の新聞が回覧された。之は相當共産化された日本人が編輯してゐるらしかった。内容は、今迄の日本軍隊の趹点、天皇制打倒等で一杯だった。之は兵隊四、五名に一枚の割で配られた。我々は等分して煙草巻きに用いてゐた。内容を読んでも大して信用する気も起らなかった。

所が他収容所より来られた○○少佐が始められた研究會に依って民主教育も着々として發達して来た。先づ最初研究會に入會した熱心なる者二十名位選定して毎日の作業に、内務に或いは日曜、夕食后の音楽、演藝等に積極的に働きかけた。
収容所幹部の後だてもあり其の勢力も益々大きくなり、四ヶ中隊ある各中隊にも委員が四、五名出来教育も本格的になった。作業も八時間勞働でグッタリ疲れて歸ってくると夕食後は討論會が実施される。木曜日には副所長より講義を受けた各中隊の講師四名が四ヶ小隊の各小隊に教育をする。最初は聴講者が少ないので各小隊に責任者を置いてそのものが責任持って小隊員を集合させる如く定められ、其の教育場所にロスケが廻って見に来る様になった。
欠席でもして寝ていればロスケに見つかったら大変なもの。皆聞く様になった。其の中に千參百名の人員の約參百民主グループ員が會員になった時に、収容所内の民主グループ大會が食堂に於いて開催された。之が第一回大會である。もう此の頃になるとグループに入らないと歸るのが遅れるかも知れないと云う不安があるので皆加入し始めた。

赤旗の歌も覺えさせられた。共産主義の教育も聞く積りで居なくとも耳に入り大分聞かせられた。教えられる理論は成る程と感心させられる。然し翌日工場で働き乍ら考へてゐるとロシヤの社會は果たしてさうであるか、教はった理論と反する事が大分感ぜられる。やっぱり何と上手なことを云ふても実際とは合はぬぢゃないかと思ふが、又講義を聴くと何時の間にか引きずり込まれてゐて、さうかなあーと思ってゐる。
資本主義の悪いところを並べられると確かに悪いことが事実だ。それに共産主義を比較する我々勞働者には絶対に共産主義はいゝやうに思われるが、実際のロシヤ人の生活、分けても下級の勞働者に云はせると不平だらだらだ。こんな具合で頭が混乱して了ふ位だった。

一九四八年に入ってからは上映する映画はロシヤの革命映画、集團農場の映画とか思想教育用のが主で、それに時々拳闘や闘犬映画もみせて呉れた。演藝會があると、劇の題材は皆ロスケが検閲して実施させる。勿論思想ものだ。
我々は毎日の作業から疲れて歸って来るので、もう教育は止めて呉れ、と皆腹では思ってゐるのだが口では言へない。本當の民主運動と云ふものは、各人が苦しければ苦しい程、順調なる時よりも強く、各人々々に盛り上がってくる力でなくてはならないのだ。
我々俘虜も旧軍隊制より解放されて民主運動を叫ぶ様になった。だからさぞかし自由に何事でも出来るだろうと思うと大間違いだ。千參百居るお互いが決定し合った事項を履行して行くには軍隊制より尚一層の嚴格なる民主規律が必要なのである。各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬのだ。そして其の定められた範囲内で自由があり平等がある。

現在の日本国民は進駐軍の占領下にあるのであり、いろいろの政党問題もやゝこしいが、米国進駐軍、日本、日本の復興との関係をよく考へて、政党とか何とか考へずにお互い日本民族であるとの自覺の下に[読取不明]して、一致團結して復興に邁進すべきだと思ふ。その為には結局政党に関係して来るが、自分としては未だに共産党か民主党か民主自由党か社會党か、今のところ世間を熟視して見ないと黒か白か不明である。共産党が日本の政府を執ったとしてもロシヤの様な社會になるとしたら断然厭である。


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断然厭である。」
心底、そう思ったのでしょう。
2年間の収容所生活で、自身の労働体験ばかりか、ロシア人の暮らしぶりを目の当たりにして、いかに耳触りのいいことばかり教え込まれても、実感の持てない主義、主張には賛同できななかったということでしょうか。

「各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬ」
これが、父の行動哲学ではなかったと思います。私たちが子供のころ「人に迷惑をかけてはいけない」ということを、何事かにつけ言われていた記憶があります。
この一文を読んで、とても懐かしい思いに捕らわれます。