2014年8月30日土曜日

その3 ゲルマン民族

3.ゲルマン民族

 ヒットラーが誇ったゲルマン民族も遂に倒れ、我等より一足先にロシヤの世話になって居た。タガノロフ市には相當数のドイツ人が居るらしく、日本人収容所の近所だけでも約千五百位居た。収容所も未完成なので彼らが四十名位収容所に作業に来て居た。
昨日到着したばかりの我々に対する態度は、飲みたがる煙草を呉れる、ロスケのことはいろいろ悪口云って呉れるといった具合で実に親切だった。彼らは言葉では我々より苦勞しない。ロスケの監督でも現場にやって来れば其の要領のいい事。初年兵當時の教官に対する態度と同様だ。それで又云って了うと怠けてばかりいて大して仕事しない。こう云ふ様な事が何度も出来る事ぢゃないけど、ドイツ人は其處をロスケに何とかかんとか言ひ譯して、シャアシャアして居る。根が頭の悪いロスケは、要領のいいゲルマンには一目措いているらしい。
貞操観念の悪い婦人はゲルマンの捕虜に惚れ込んで相當の仲のも居ると云ふ話。又、タガノロフ市にドイツ製の優秀なる機械類が相當運び込まれている。總てがロシヤの粗雑な製品より優秀なる事を自覺しているからだらう。
我々が段々仕事にも慣れて来て作業の%の事等も判るようになると、捕虜の作業の、楽で給料の多いような仕事はドイツ人が獨占し、日本人は汚い、重勞働方面、又はどんなに働いても給料も貰えない場所に、何時の間にか振り當てられて了って居たのだ。
我々の収容所内にもゲルマンの野心が伸びて来て居る。炊事の長はワイテルだし、作業副官もゲルマンだ。此奴がロスケの作業主任の下に居て各工場への人員割當をやって居たのだ。ワイテルは炊事の長をやって居乍ら、日本人に配給される糧秣を我々が言葉通じないのを幸ひに誤摩化して居たんだ。ロシヤ語も段々出来る様になり、いろいろの事情に慣れて了った後、漸く感づいて日本人は日本人の手でと追ひ出して了った。
工場は工場で彼等と共に働くと機材はいいのばかり獨占しやうとするし、仕事はなるべくやらずにパーセントだけ上げやうとするから、日本人をロスケから受けが悪い様に仕立てて行く。朝からは器材の奪ひ合ひだ。
一つの會社を例にして云へば、ゲルマンの中隊長が鉄工場に監督の秘書役で仕事はせずに現場をみて回って居たが、こいつが癖もので日本人のパーセントは実際の仕事量より減らして、ゲルマンのパーセントを増やして居た。
彼等が捕虜生活は二年も參年も先輩で、ロスケより相當め絞められてゐるのだから、それを要領よく抜け道して、少し位の悪い事をやった者が今も元気生き残って居るのだ。馬鹿正直に働いた者は仕事と給與が釣り合ずに、みんなのびて了って居たのだ。そう云った次第で、工場より品物を何とか眼を忍んで持出し、地方人に売り飛ばしてのどをうるほはして居る者が非常に多い。
ゲルマンの要領も、我々の3年間の在ソ生活で、遂にロスケに信用落して了ったアントレバー工場では、ゲルマンは要領ばかりで日本人の方が余程能率上がると立證して呉れ、此處の大きな工場では日本人を參、四百人も使用して呉れた。然も皆百五十円位月給を貰へるのだ。
我々は在ソ間、作業上大分ゲルマンと衝突したが、ゲルマンには民族的には非常に偉いところもある。ロシヤでは勞働八時間制になってゐる。捕虜も同じだ。それを使い主の方で少しでも多くと欲張って參十分でも一時間でもと時間を超過させようとする。
日本人の方は、収容所長に云ふとか、営倉に入れるとか云はれると泣き寝入りになる者が多いが、ゲルマンは断然之を蹴飛ばして了ふ。民族として自覺をはっきりと辨へている。もう二十年もしたら今度は又、ロスケをやっつけるんだと誰もが云って居た。
収容所内の清掃やいろいろの動作に於ては、確かに我々よりは優っていたハンガリーやオーストリヤもゲルマンの収容所内に一緒に居たが、風ボー[]や言語等に於いて又体位等純粋のドイツ人には遙かに劣ってゐた。
作業方面での衝突で、大分ドイツとも喧嘩したが、奴等は突き飛ばすのが得意だ。中にはボクシングの強い奴も居たが、平均すれば腕力に於ては素早い日本人には大抵負けて居た。第一番に喧嘩したのが○○君で、一發でノックアウトした。ロスケの作業主任が頑張って辯解して呉れて何事もなく済ました。其の後、主だった事件は四中隊の兵隊がドイツの中隊長を背負投食はして、鉄管で頭ぶっ叩いて打ち割った事件だ。その代わり參、四名でぶっつかって行ったがドイツ人一人にノックアウトされたと云ふ話もある。
大体ドイツとは防共協定を結んで居た関係上仲良くなくてはいかぬ筈なんだが、其の時は捕虜同士で競争相手であったからか總てがうまく行かなかった。他の収容所でたぶんこうだったらうと思ってゐる。



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生前、父がドイツ人捕虜と相撲をとったこと、柔道をたしなむ父が体の大きなドイツ人にも勝っていたことは聞いたことがありましたが、この手記の3番目に書くくらいのいやなものがドイツ人だった、というのは、同盟国とばかり思っていた私にとっては意外でした。

2014年8月23日土曜日

その2 列車輸送

2.列車輸送

前記野宿地に寝起きする事約二週間。其の間近所の(近所といってもニ、參粁は充分)道路修理に使はれて六月十八日に漸く明日乗車して目的地に出發することが判明する。この日より出發準備に取りかかった。
さて、十九日になると毛布仕立の天幕を撤収、装具を梱包して午前中に整列、線路の上の斜面にて装具の検査受く。ロスケの将校数名と兵隊数名が検査するんだが、之又程度の悪い奴が居て所持品のめぼしいものをかっぱらって了う。万年筆、時計等其の著しい例だ。
装具検査を二、參時間も費やして終わると貨車の準備が出来る迄其の儘待期。夕暮頃乗車して何處かに向かい出發するらしい。それが何處であるか大隊長始め我々には知る由もない。入院[出発?]直前に腹工[具]合悪くて、一名兵隊がゴスピタリ(入院)した。
予想通り夕暮に貨車に割當られた。六十トン貨車に約五十名だ。平壌より興南迄の八十名よりは余程増しだ。然し全員が横になったら歩くのに足の踏場も無し。横になって行けるだけ捕虜たる我々は感謝せねばなるまいて。貨車は六十トンの有蓋車だ。小窓はみんな釘付けしてあり小便する樋が片側の扉を少しあけて釘付けにしてある。大便小便すべてこれに依るのだ。逃亡を予想しての處置らしい。
全員乗車完了すると歩哨が人員点呼に来た。全員社内の前半に寄せられ、歩哨が立っている前を歩いて人の居ない片側に行くのだ。それを一、ニ、參と数えるのだが、そのロシヤ語が知らない我々にはピーナット、ドーナットと聞こえて可笑しくなって来る。数へ違へると腹立てて尻を蹴っ飛ばす。大体今迄のロスケがみんな数を読むのが下手だ。乗車地の将校は七千名かの人員を数へるのに一日を費やしたような次第だ。
点呼を終わって歩哨は下車すると扉を閉めて表より鍵を掛けた。六月の十九日と云えばシベリヤの真夏だ。狭い箱の中に50名も押詰められ、窓といふ窓は皆閉ざされて蒸し暑くて處置なし。之で何日と保てるであらうかと思ふと全く心細くなって了ふ。
暮くなってから北に向かって出發した。いざ出發してみると今迄乗り馴れた内地や満州の列車に比したら、その反動のひどい事、ひどい事。丸でパンクした自働車で凸凹道でも走る様だ。車内は真っ暗で蒸し暑く、おまけに車内に便所があるのでクサくて全く堪らない。
我々も捕虜として此處まで来た以上環境に參って了っては之又仕方ないので、やけくそになって、就寝前には寝て居る順で演藝會等を実施する。腹一杯食って涼しいところでやるのと違ひ、クサさと暑さと暗さとガタガタとに斗い乍ら、やるのだから悲壮だ。
參日位経ってシベリヤ本線に入ったらガタガタも大分静かになった。朝になると歩哨が各列車を巡って来て扉を開いて、点呼を取る。御機嫌がいいときは無事だが、そうでない時は一名二名は必ず突き飛ばされるか蹴飛ばされる。朝の点呼が済むと片側の大扉は開放されるので、異境の地を眺めるのに余念無し。人家が稀にあり、あとは草原や松林のみ。実に殺風景な眺めだ。東海道線の眺めに比したら淋しい極みなりき。雄大な眺めと云うかも知れんが、之も捕虜で然も何處の勞働に引っ張られていくかも判らんものには、その気持ちも少しも無し。
食事の方は車輌が数重あって、中央の車輌が炊事車だ。此處で勤務員(日本人)が五、六名。千名の食事を大きな釜で炊いてくれる。米も時々はあったが、殆ど粉類が多く、一人分飯盒の蓋一杯だ。一日に二回。それにパンが參五〇瓦。朝鮮産のグリコース(工業用砂糖)が角砂糖一ツ分位。メンタイの乾物が五匹。その儘渡される。まあ、どうせ車内でゴロゴロ寝て居るんだからどうやら過ごせないでもなかった。水は車内より五、六名當番出して、停車時間の長い駅で水筒に詰めて来る。暑い盛りで思ふよう補給できず水だけにはほとほと困った。
タバコは収容されて以来二、參回支給されただけなので、みんな困り續けだ。自分はこの列車に乗車二日前に糧秣係のロスケに腕時計をやって煙草を五〇〇瓦位貰ったので、車内では実に円滑に、乗りあはせた戦友にも大分吸はせてやった。
シベリヤ鉄道もバイカル湖畔を通るときは六月末と云ふのに寒くて仕様がなかった。乗車直後の暑さを羨めしいと思った。防寒外套、毛布をかぶっても夜明は眠れなかった。又湖畔と云ふと内地の湖の畔を思ひ浮かべ易いが、世界で一番大きな湖だけに、丸で海の様である。朝だったからかも知れないが、水は澄んで冷たさうであった。
ノボシビリスクに停車したら二時間位して入浴と被服の消毒をした。之は駅から二粁位のところにある検疫所で、着用してゐる被服一切、毛布、外套等全部蒸気室の中で消毒するのだ。しらみとは縁のある捕虜にとっては実に親切なやり方である。又、ロスケに取っての發疹チフス予防の為になくてならぬものだ。
入浴の方は一度に何千という人間が入れる広さで、日本式の浴槽とは違ひ、蛇口が熱湯と水が並んで豊富に流れ出て来る。我々は朝鮮出發以来、風呂に入って居ないもんだから、汚が出るわ出るわ。何度こすっても限りなし。首迄つかって了ふのだったら、ホトびてよく落ちるかも知れないが、洗面器で流すんだから知れたもんだ。
入浴が終わるとビホンビホン(脚注:ビホンとは急げのこと)と尻追いまくられて貨車に歸った。約一日停車の後、さらに出發。約十日も汽車に乗り續くるもいまだ行先不明。駅構内でロスケが云ふにゃ、ニポンスキーは一九四八年に歸れる、と。之から二年も何に使はれるか知らんが、不安なものだ。
沿線のロシヤ人の感じは? 言葉を知らぬ自分等は向ふから話しかけられてもチンプンカンプンで、さっぱり判らず大していいとは思へなかった。停車すると車内にロスケの兵隊が上がってきても我々をからかふ。その隙に、ゆだんすると品物をかっぱらって行って了ふ。
ノモンハン事件に參加した兵隊の多い街等では、水汲みに行く兵隊に石を投げつけたり水筒をかっぱらったり、未だ幾らか恨みを残して居るんだらう。子供が車輌目がけて石を投げつけるのが大分居た。又、我々が煙草を欲しがって居るのを知ってか、煙草の小箱をみせて万年筆と交換してやると云ふ。それを信用してうっかり交換すると一箱だけは中身が入っていたが、後三箱は空っぽすだったりだ。
しかし、悪い奴ばかりでもない。中には果物を持って来て呉れたり、口付きのパピロスと云う煙草を呉れた◆◆◆◆(読取不能)大分見られた。オムスクよりモスコーに近い方に行くと、我々を珍しがって居た様だ。
ウラルの山脈に入ると電気汽缶(機関)車だ。長い長いのぼり坂。内地の長さとケタが違う。ようやく一日位掛って通り過ぎた。一本の列車が〔蛇行する曲線〕この位曲がってマーロマーロ(脚注:マーロとは少しずつ、ゆっくり)で上っていくんだから無理もない。
列車より見る沿線の建物、シベリヤ付近は実にソボクに出来て居る。主に木造建が多い。ウラルを越えてだんだん向ふに行くと木造が少なくなって、煉瓦積み泥壁が多くなって云った様に思ふ。
愈々二十日も汽車に乗っているのに下車するなんて噂にも出ない。外の景色もだんだん東洋とは変わって行くのか、大してみる気もしない。車内で麻雀やったり碁将基(棋)がえらくはやる。ドン河も渡りドナウ河も渡った。オビ、エニセーの大河もシベリヤで渡ってきてゐる。ボルガの舟歌で聞こえたボルガ河はやはり相當の広さだ。川汽船が静かに動いて居た様だった。
汽車旅行も十日以上となれば停止して居る時よりも走って居る時の方が安心して眠れるとは今度始めて味った。グッスリ眠って居る時でも汽車が停止して静かになると何時の間にか眠りが覚める。まったく可笑しい位だ。

以上述べた様な車中生活にも二十五日にして漸く終りを告げた。七月一四日にアゾフ海沿岸のタガノロフ市に到着。貨物列車引込線にて全員下車した。


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現在でも、シベリア鉄道のウラジオストック~ウクライナ(ドネツク)間が9日間かかるということですが、25日間の窓のない貨車での移動は、想像を絶するものです。それにしても、そんな中でも演芸会やら麻雀、囲碁将棋などに興ずるというところには、しぶとさを感じます。

2014年8月17日日曜日

その一 前書き・目次・入「ソ」第一日

ひまわり ~あちらでの話~         出田常喜


ひまわりについて

 苦しかったロシヤの生活。空腹だった収容所の寝起き。又、その苦しさの中にも楽しみはあった。そのような諸々の出来事を、ロシヤに入って歸るまでの順序を追うて記してみようと思って、未だあまり忘れてもゐない二十參年の九月頃、汗を流しながら毎晩少しずつ思い出し、引き出し書いたのがこのまづい字、文章になって了った。
 もともと人に見せる為に書いたものではなかったし、二、參の人に見せたら、面白い、珍しいと云う。では、誰でも読める様にしやうと思って纏め上げた譯です。



目次
入「ソ」第一日
列車輸送
ゲルマン民族
ロシヤ語
作業に就いて
休養に就いて
衛生清潔
給與
負傷
月給
葬式
勞働者
病院
「ダモイ」のデマ
教育
ダモイ
追記
かっぱらいに就いて
壁新聞
生産會議



1.入ソ第一日

 東京ダモイ、ダモイ、とロス毛にだまされて着いたところがポゼット湾だ。ちょうど晝過ぎだった。  港には一隻の貨物船が居て、盛んに糧秣の積込の盛中。我々はこの船に横付けになり、これの甲板を経て下船する。1年間も住み慣れた満州の山々が東の方向に見える。国境より幾らも離れていないことは確かだ。
 真夏の日に照らされて,今まで船倉に座る場所もないくらいに押し詰められてゐた我々の目はまぶしく仕様がない位だ。
 全員下船終了すると港湾の小高い丘に引っ張りあげられる坂の途中で、女医の身体検査が実施された。虱検査も実施される。余程虱を嫌がっているものと見える。女医が、頭痛イ、腹痛イ等とかたことの日本語で尋ねる。これから察するに我々の前には相當の日本人が上陸させられたことが想像出来る。
 検査を終えて丘に上りつめると其處には天幕張り病院がいくつも並んでゐる。病院の傍らでロスケの歩哨が来る迄待機だ。今からどこへ引いて行かれるか、皆目判らない。
 先刻の身体検査で弱体者は選び出された。自働車で輸送するらしい。健康者は徒歩だ。我々は防寒具一式、軍衣袴二着、ジュハン、コ下も各二着、背嚢、雑嚢、水筒、毛布外套と腰周りから背迄一杯だ。これだけの重量を背負って何里かの道を歩かせられるのだ。どこに行って、どこに泊まるのかさへ判らず、少なからず不安にかられる。
 それよりも飯は何を食うか。
 そこで待ってゐる中にトラックが前に停車して、色青ざめた日本人が十四、五名降りた。或る者は松葉杖だし、或る者は歩けず腹這って幕舎に入って行った。皆、我々と口をきく元気もない。あんなに成るまで酷使されているのか。我々もこれからあんなめに逢わねばなるまいと思ふとゾッとする。
 二時間するとロスケの兵隊が来て人員点検したる後、出發を命じた。数千名の人員の下船、それに身体検査等もう大分時間も経って、夕暮れが近づいて来た。林の間をぬふて歩くが、到るところに弾丸や大砲が澤山かくしてあった。
 朝からヒモノのめんたいしか食ってゐない腹はぐうぐうだ。日は没したと云うのに両側に歩哨の銃剣着いて歩け歩けだ。弱体者は選び出されたはずなのだが、ボツリボツリ落伍者が出る。軍隊盛んなりし時の行軍と精神の在り様が違ふ故詮方なし。
 歩いても歩いても兵舎らしい家一つとて無し。途中でトラックがニ、參台、我々の背負ってる荷を運ぶ為目的地までの間を往復し始めた。アゴ出してゐる者は来る度に、俺も俺もと積み込んだ。自分は隊長の職にあり、それに体力も自身あるし、お世話になること無し。ロスケのことだし、どうなることだかと言ふ考へもあった。
 夜の九時頃か漸く鉄道線のあるところまで来た。此處が當分の間の宿営地ださうだ。全員野宿だ。晝から心配してゐたのが始まった譯だ。凸凹の草原に天幕を敷いて、毛布を着て分隊員くっつき逢うて一夜を明かす。何をするにも暗さは暗し、腹はぐうぐうだし、何も出来ず、美しいか汚いか分りもしない水をガブガブ飲んでスパーチ(寝ること)。スパーチといふ言葉も此處では覺えてゐた。

 入ソ第一日の印象は、見慣れない、しかも謎々のソ聯領に踏み込み、今後の不安さ、第一日目からの空腹で、シミジミ捕虜のみの辛さを味わった。


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 冒頭に出てくる「ポゼット湾」は、ロシアの北朝鮮との国境に近い、ポシェト湾のことではないかと思われます。

ひまわり の公開にあたって

数年前、私の母から、古びたノートブックを渡されました。それは、もう32年前に亡くなった父が、昭和23年、シベリア抑留から帰ってきた後に、3年間(※2)の抑留生活を思い出すままに記したものでした。

父・出田常喜は大正11年、熊本県生まれ。旧制中学校卒業後、大蔵省専売局に入局。恥ずかしながら、軍への招集がいつだったかなど、細かい軍歴を聞いたことはありませんでしたが、外地では上海を経て、ハルビンの付近で終戦を迎えたようです。
帰国後は、専売局(後に専売公社~日本たばこ㈱)に復職し九州の工場に定年まで勤務していましたが、昭和58年に肺がんを患いこの世を去りました。

父が抑留されていたのは、今、最も緊張状態にある現在のウクライナ東部の国境に近い、ロシアのタガンログというアゾフ海沿岸の町でした。もちろん、ウクライナの近くとはいっても、冬は氷点下30度にも40度にもなるという厳しい寒さの土地です。
父は元来口数の多いほうではなく、生前、シベリア鉄道での移送や抑留生活が辛かったこと、多くの仲間を失ったことなど、断片的に聞いたことはありましたが、具体的な生活や労働のことなどについて聞くことはありませんでした。
この手記を読んでみると、疑問に思うこと、詳しく聞いてみたいことが数多く出てきますが、今となってはどうしようもありません。

シベリアに抑留された日本人は五十数万人といわれ、短くて1年半、長きに至っては実に10年以上にわたる収容所生活を経験された方もいらっしゃいます。(この間に亡くなった方は5万人とも6万人とも言われています。)
父は、大正11年生まれ。生きているなら今年92歳になり、抑留生活を経験された方も高齢になり、亡くなられた方もたくさんいらっしゃるようです。

この手記が、同じ体験をされた方々のお目に留まれば幸いですし、残念ながら故人となられた抑留経験者をご親族にお持ちの方にもご覧いただきたく、この手記を順次掲載させていただきます。

※1:手記は、父が書いたままを、できるだけ忠実に、タイプしています。したがって、旧字、旧仮名遣い、誤字等もあろうかと思いますのでご容赦ください。

※2:手記の冒頭に、ロシアへの移送が始まったのが6月とあります。また、これも確認しようがありませんが、昭和20年8月の終戦から翌21年の6月までは、ソ連が侵攻した旧満州付近で捕虜として収容所生活を送っていたのではないかと思われます。