2015年1月4日日曜日

23 ダモイ

21.ダモイ

 だまされて又だまされつゞけた我々の東京ダモーイも、愈々実現の日は未だ忘れもしない六月一日の作業終了後。皆作業場よって来てから入浴場前に整列、所長アリルエフ所長よりスターリンの命令を達せられたときの感激。
 眼頭がジーンとして涙がポツリと落ちた。零下30度の日に一日中火の気もない雪の中で働いた時の苦しみ、出来さうにもない仕事をロスケにダバイダバイ(ヤレヤレ)とせきたてられた時、焼けるやうな暑さの時の土工作業。眼がまふ様に高い格納庫の屋根の上の作業の時の苦しさとの闘ひは、總て此の日歸る日を夢みての闘ひであったのだ。
 数回もだまされた結果今年一杯は大丈夫だ(と)思ってる連中も大分あったのだが、それだけに急に發表された時の感激は強かった譯である。命令を聞いたときは嬉しかった。そしてその後、いろいろの点に於て歸る準備が一つ一つ出来上がって行くのをみて、今度こそは絶対だと思った。然し或る者は、途中シベリヤの何處かで下車を命ぜられるかも知れぬ、と云ふ者も居た。此の話だけはそんなことは絶対にないと云ふ自信が持てなかった。

 愈々出發當日になって朝早くから荷物を纏めたが、唐きびの引割粉の黄色いお粥が、あまり嬉しくて喉を通らぬものが多くて炊事(場)の前は残飯が随分出てゐた様だ。自分は腹具合が悪くても二人分食って、もう一杯いかがですと云はれたが、もういけなかった。
 汽車の中の煙草が心配だったが、甲佐出身の西村則義さんより澤山分けて貰って助かった。

 門の前で所持品検査されて、もう二度と入る事のない門を通った。内地に歸ったらこっちの方を向いては小便もすまいと思った。
 町を歩いて駅に行ったが、タガノロフ市(に)到着して見知らぬ此の町を歩いて収容所に来た時の気持ちとの違ひ。行きすれあふロスケが「トウキョウダモイダ?」と聞く。「ダーダー」(ハイハイと云ふ事)と答えると、「ハラショー」「イイナア」と云って、通り過ぎて行くロシア人一人一人迄、我々の東京歸還を喜んで呉れるのだ。個人的な感情のよさの現れでなくてなんであらう。

 駅では二年前に来た時の様な六〇頓貨車に七〇名位乗せられた。然し今度は車内に便所も何もついてゐなくて、小窓も釘づけもしていない。来るときの感じの悪さに比較してみると雲泥の差だ。
 六月四日夕刻愈々一生忘れる事の出来ないタガノロフ市ともお別れして、二年振りのシベリヤ旅行の旅に出發した。
二年前は暗い旅行だったが、今度は皆晴れやかな明[]い気持ちだ。来る時みたいに歩哨も毎日毎日点呼も取りに来ない。ウロ覺えのある景色を眺め乍ら走るが、汽車がのろい様な気がして仕様がない位だった。
 シベリヤの草原、松の林、コルホーズ(集團農場)等ロシヤの土地は実に広い。実際に眼でみてこんなに広いものかと思ふ位。そして雄大である。内地の景色に比べると実に殺風景でまた変化のないことには驚くだらう。ボルガ河、ドン河、ウラル山脈、オビ川、エニセー河等も今度(は)充分眺めて来た。バイカル湖はイルクーツク邊り、実に綺麗なところだ。来る時程寒くなかった様だった。
 列車運行中にロシヤの囚人列車と追いつ抜かれつで来たが、奴等の待遇は実にひどい。我等日本人があれぢゃ可愛さうだと思ふ位だった。それに又樺太への移民列車と並行した同じ駅に停車すると夕方なんぞは車より降りて移民團の女とロシヤの社交ダンスを踊ってゐた者あった。

 列車も二十五日を費して約一萬数戦粁を走破し、我々をナホツトカの集積地へ送届りけて呉れた。ナホツトカでは第一、第二、三、四と四つの収容所があり、ダモイ(歸ること)の為にナホツトカに着いた者は第一収容所に入り此處で被服の滅菌、入浴を終ると、二、三日してから第二か第四の収容所に入れられる。此處では被服の修理交換だ。そして始めて第三収容所に入るのである。
第參は仕上とも云ふべきもので、税関の検査を受けた上で被服程度の再検査があるだけで、あとは船が来れば乗れる様待機の姿勢で居るだけだ。
 一番良かったことは第一、第二、第四の様に使役もなく、うるさい共産教育のないことだった。久方振りにのんびりした気分が出た。第一、や第四でやられた様な(教育があったな)ら少し赤くなりかけたものでもうるさがって、反動が強くなると思った。

 愈々ソ聯と離れる日が来た。晝頃所内の広場で復員式が挙行された。兎に角歸ったら、天皇制を打倒して働く者の民主的な国家を造れと云ふのだった。波止場まで歩いたが、船が乗る為に我々が整列してゐるのに、波止場では直ぐ横で日本人が黙々として土工作業をやってゐる。こっちは歸ると云ふのにそれを見乍ら仕事してゐるなんて、彼らの気持ちは。
 遠州丸と書いた船の姿をみた時の喜び、甲板に上がって日本人の船員を見た時、日本式の米の飯にみそ汁、沢庵、梅干を食った時の懐しさ。そして内地のいろいろの事を想像し、ロシヤでの苦しかった事、面白かった事を頭に浮かべてシベリヤの空を眺め日本海を横断する船足ののろい事には全く驚いた。

 内地の山々が見えだし澤山の木、竹薮をみ、やっぱり日本だ、日本はいゝなあーと一番に思った。
 遠州丸より伝馬船にうつりそれから上陸した時の喜びは。昭和二十參年七月十四日より内地での生活第一日が開始された譯だ。兎に角之から頑張らう、復活だ。

 七月十八日我が家に辿り着いて以来早5ヶ月と十数日は過ぎ二十四年の元旦を迎へるに至った。二十四年の年頭に當り感想をつれづれなるままに記さう。
 あゝ、今年一杯はおろか、次の正月も此處で迎へねばならぬかと、幾らか捨鉢気も起りかけてゐた二十參年五月、急に収容所内にダモイ(歸国)の噂が持ち上がった。然し千參百の戦友も皆明るい顔になったが未だ何處かに一抹の不安が漂って居た。
 それが六月一日だったろうか、所長がスターリンの命令を達した時の感激。眼がジーンとなって涙が一滴二滴ひとりでに頬をつたった。みんながその日をたった一つの目標に朝鮮以来、作業に、給與に、天候に、我が体の病気と闘ひ續けて来たのだった。其の日までの苦しみが未だ昨日の様に想ひ浮かんで来る。
 復員後約半年温〔か〕味のある我家で暮し、此處に新春を迎へたが、ともすれば今の生活になれ怠惰になりかける気持、これぢゃ確かにいけないと思ひ乍らもどうにもならない。少なくとも俘虜生活をやった我々は「俺は俘虜だ、何をやっても駄目だ」と精神的ひがみを持ってはいかぬ。あゝ生き通した甲斐があった、之から大いにやらうと家に歸りついた時の気持、それを断然忘れてはならないと確信する。
 之からは日本人同志のために今までの苦しみ、あらゆる生に対する苦しみと闘った体験を生かして歸り着いた時の気持を永久に忘れずに大いに復興に、人生の再出發に奮闘せねばならぬのだ。その為に現社會の様相をじっとみつめてゐなければならない。大いにそれを勉強してこそ始めて、これからの実社會にいろいろの体験が生かされるのだと思ふ。

 元旦の朝から晝、夜、と酒の連續だ。飲める酒なら大いに飲むべし。生き返った最初の元旦だもの。復員當時みたいに一寸飲んで心臓が參る様では飲まぬに越したことはないが、本年こそは体のコンディションも波に乗ってきた今日、我等の生涯の最良の年たるべく、職務に、家庭に大いに勉強しなければなるまい。
 
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 どこの港に帰ってきたのか、そして、上陸直後の検査などのことについても、まったく書かれていませんが、当時、シベリアからの帰還船は、ほとんど舞鶴港に入港していたこと、「遠州丸」と7月14日という日付から、舞鶴港には間違いないものと思われます。
http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/kiroku.htm
http://maizuruwalker.web.fc2.com/hikiage/hikiagesen.htm

 以上で、父のシベリア抑留記は終わりになります。これまで讀んでいただきありがとうございました。
 私自身、この父の手記を通じて、あらためて戦争、そして戦後日本が経験してきたことの多さ、大きさを知ることができました。
 これからも、機会を得て、こうした知識も深めていきたいと思っています。