2014年11月29日土曜日

20 教育

20.教育

我々同胞百何十萬をわざわざシベリヤ、ロシア本国に莫大なる輸送費と時間を費やして引っ張り込んだのかよく考えてみる時に、人的資源の補充、之もあるだらう。然し何と云っても共産教育が最も大なる原因だらうと思われる。では我々は在ソ中には今迄書いた様な勞働に服務させられて来たが教育にどの様な手段で手を打たれたかを述べよう。

朝鮮で収容されて以来タガノロフ市到着迄は思想教育なるものは全然施されなかった。タガノロフ市でラボータ(作業)やりだしてからボツボツ始まった。
日本新聞と云って日本時俘虜向にハバロフスクで發行した日本語版の新聞が回覧された。之は相當共産化された日本人が編輯してゐるらしかった。内容は、今迄の日本軍隊の趹点、天皇制打倒等で一杯だった。之は兵隊四、五名に一枚の割で配られた。我々は等分して煙草巻きに用いてゐた。内容を読んでも大して信用する気も起らなかった。

所が他収容所より来られた○○少佐が始められた研究會に依って民主教育も着々として發達して来た。先づ最初研究會に入會した熱心なる者二十名位選定して毎日の作業に、内務に或いは日曜、夕食后の音楽、演藝等に積極的に働きかけた。
収容所幹部の後だてもあり其の勢力も益々大きくなり、四ヶ中隊ある各中隊にも委員が四、五名出来教育も本格的になった。作業も八時間勞働でグッタリ疲れて歸ってくると夕食後は討論會が実施される。木曜日には副所長より講義を受けた各中隊の講師四名が四ヶ小隊の各小隊に教育をする。最初は聴講者が少ないので各小隊に責任者を置いてそのものが責任持って小隊員を集合させる如く定められ、其の教育場所にロスケが廻って見に来る様になった。
欠席でもして寝ていればロスケに見つかったら大変なもの。皆聞く様になった。其の中に千參百名の人員の約參百民主グループ員が會員になった時に、収容所内の民主グループ大會が食堂に於いて開催された。之が第一回大會である。もう此の頃になるとグループに入らないと歸るのが遅れるかも知れないと云う不安があるので皆加入し始めた。

赤旗の歌も覺えさせられた。共産主義の教育も聞く積りで居なくとも耳に入り大分聞かせられた。教えられる理論は成る程と感心させられる。然し翌日工場で働き乍ら考へてゐるとロシヤの社會は果たしてさうであるか、教はった理論と反する事が大分感ぜられる。やっぱり何と上手なことを云ふても実際とは合はぬぢゃないかと思ふが、又講義を聴くと何時の間にか引きずり込まれてゐて、さうかなあーと思ってゐる。
資本主義の悪いところを並べられると確かに悪いことが事実だ。それに共産主義を比較する我々勞働者には絶対に共産主義はいゝやうに思われるが、実際のロシヤ人の生活、分けても下級の勞働者に云はせると不平だらだらだ。こんな具合で頭が混乱して了ふ位だった。

一九四八年に入ってからは上映する映画はロシヤの革命映画、集團農場の映画とか思想教育用のが主で、それに時々拳闘や闘犬映画もみせて呉れた。演藝會があると、劇の題材は皆ロスケが検閲して実施させる。勿論思想ものだ。
我々は毎日の作業から疲れて歸って来るので、もう教育は止めて呉れ、と皆腹では思ってゐるのだが口では言へない。本當の民主運動と云ふものは、各人が苦しければ苦しい程、順調なる時よりも強く、各人々々に盛り上がってくる力でなくてはならないのだ。
我々俘虜も旧軍隊制より解放されて民主運動を叫ぶ様になった。だからさぞかし自由に何事でも出来るだろうと思うと大間違いだ。千參百居るお互いが決定し合った事項を履行して行くには軍隊制より尚一層の嚴格なる民主規律が必要なのである。各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬのだ。そして其の定められた範囲内で自由があり平等がある。

現在の日本国民は進駐軍の占領下にあるのであり、いろいろの政党問題もやゝこしいが、米国進駐軍、日本、日本の復興との関係をよく考へて、政党とか何とか考へずにお互い日本民族であるとの自覺の下に[読取不明]して、一致團結して復興に邁進すべきだと思ふ。その為には結局政党に関係して来るが、自分としては未だに共産党か民主党か民主自由党か社會党か、今のところ世間を熟視して見ないと黒か白か不明である。共産党が日本の政府を執ったとしてもロシヤの様な社會になるとしたら断然厭である。


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断然厭である。」
心底、そう思ったのでしょう。
2年間の収容所生活で、自身の労働体験ばかりか、ロシア人の暮らしぶりを目の当たりにして、いかに耳触りのいいことばかり教え込まれても、実感の持てない主義、主張には賛同できななかったということでしょうか。

「各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬ」
これが、父の行動哲学ではなかったと思います。私たちが子供のころ「人に迷惑をかけてはいけない」ということを、何事かにつけ言われていた記憶があります。
この一文を読んで、とても懐かしい思いに捕らわれます。



2014年11月22日土曜日

19 ダモイのデマ

19.ダモイのデマ

我々は何時になったら日本へ歸れるのだらうか。スターリンは歸す気があるのだらうか。褌一本でもいゝから歸してさへ呉れたらいゝがなあ。
これはシベリヤに引張られたる者の共通の、然も最大の願望だった。
歸ったら一番先に食ふものは何か。俺は先づ風呂に入って捕虜の汚れを落としてから銀飯に澤庵でいゝ。俺はボタモチのコッテリ甘いのを腹一杯食ふんだ。俺は何と云っても酒だ。と、何を云っても食ひ物の話だ。
皆復員の夢をたのしく描いてゐる。反面捕虜で歸るんだから晝間は恥ずかしいだらうな。親爺はどんな顔をするんだらう。俺達は天皇陛下の命令で中止したんだから仕様ねえや、と云ふ心配もあった。
千參百も居る収容所内では誰か一人でも、今年何月にや歸れる、今日ロスケが云ふた、とでも云はうものなら忽ちにして所内に擴がる。戦友が一寸でもそんな話をして居るのを立ち聞きすれば根掘葉掘、聞くのに一生懸命だ。
そしてその月の楽しみにしてゐるとその月は何時の間にやら過ぎて過ぎて了う。あゝだまされた。之が二年の間何回となく繰返へされた。然しそんなに何度もだまされたと知ってゐながらそんな話を一寸でも聞けば又真面目になって聞き出すのだ。

ほのかに歸る希望を抱いてゐる内地に歸る夢。家に歸り着いて皆と顔を合はせたが、誰も顔を見ただけで物を云はない。やっぱり捕虜になって歸ったからだらう。家の畳でボタモチを皿一杯出されて食はふとするがどうしても喉を通らなかったり、皆夢だ。この様な夢もみる時には一週間位續けてみるが後は二、參ヶ月も全然みない。確かに周期を持って家の夢が廻って来る。こんな時には家の方でもそんな夢をみてゐるかも知れない。

それから葉書を出せる様になってから皆自分の家へ出した。その返事が一九四八年の春頃になって来始めた時の喜び。俺の子供相當大きくなってゐるらしい、家内も元気だとはしゃぎ廻る者。米が一升幾らになってゐるさうだとか、内地のニュースを皆でよってたかって聞いてゐた。

中には自分みたいに終戦後に妹が病死したと云ふ便りを貰った者もいるだらう。然し自分は朝鮮に居る時の九州の空襲状況も情報では入って居たので家族全部死んぢゃいないだらうかと云ふ不安もあった。それでロスケから葉書を受け取って一読した瞬間は親爺の見覺えある字をみて一人だけでよかった、他は皆元気だと安心が起った。
しかし自分の寝台に歸り着いて落着くとやっぱり涙がにじんで来た。二十幾かにまでなってと思ふと、肉親の情と云ふものは何萬里離れても同じで変らぬ。家も焼けて居らずに本當に心から安心した譯で益々一日も早く歸り度くなった。

一九四七年の五月には収容所内では我々輸送列車の指揮のメンバー迄決まって愈々内地ダモーイの内命がスターリンからあったと云ふので、収容所内でも貨車の設備の準備までして本當の命令の来るのを待ったが、七月になっても八月も九月も遂に来づ、我々をより一層落膽させ又寒い厭な冬を越させて了った。
一冬と簡単に云ふけれども、シベリヤに居るものにとって冬程苦しい時はないのだ。その苦しみは一寸云ひ表し得ないだらう。一冬のびただけで何名の日本人が栄養失調で、作業上の事故で死亡し又病気するか。今も尚四十萬の同胞が残ってゐるかを思ふとゾッとする。彼等はきっと寒さと疲勞の中に、来春には家に歸る日が来るであらう、一日々々を暮らしその日の来たらん事を願ってゐるであらう。



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 ロシア語「ダモイ」というのは、go home の home という意味のようですが、収容所の日本兵の間では、帰国、復員を意味する合言葉のように使われていたとのこと。
 父たちのソ連での収容所生活は2年間でしたが、もっと長く抑留されていた収容所では、こんなデマが何度も流れては、期待と落胆の繰り返し・・・、そしてあきらめにも繋がるでしょう。収容所生活の辛さの一面です。
 
 文中の叔母が亡くなったのは、終戦後間もない昭和20年11月7日。享年21歳。詳しくは聞いていませんが、結核ではなかったかと思います。たしか、すぐ下の妹だったので、ショックではあったのだと思います。

 私たちの実家の界隈は、熊本大空襲での被害は免れましたが、米軍機の無差別機銃掃射を受けたという話を聞いたことがあります。実家にも機関砲の銃弾が残っていましたし、近所では子供が亡くなったそうです。

2014年11月15日土曜日

17 病院 、 18 女

17.病院

 ロシアに於いては、病院は總べて國家管理であって、治療費は官費である。医療は病気に依って施療日数が決まってゐる相だ。手先の負傷は十五日と決まってとゐる、すると指先の負傷がやゝこしくて其の日数で治りさうにないと、根元から切断されて了ふ。それのほうが治りが実際に早い相である。でロシア人を見るに、日本人より手足の不具者が多い様だった。右之様な制度の弊害は実際にあるか否か、自分が病院へ行って見た譯ではない。
 不具者が多いと云ふのは、ロシアの医学がそれだけ遅れてゐる何よりの證據だ。

 ロシアの地方人は入院するもの全部頭は坊主にされ、脇毛も陰毛も人体に生えてゐる毛はそり落とされる。これは虱予防の爲ださうである。

18.女

 男女同權の下にロシアの女は、男に負けずあらゆる方面に活動してゐる。ニュース等で聞く通り、女の兵隊も居る。軍医、看護婦等は女だ。ほとんどと云っていい位だろう。したがって我々捕虜の軍医は女医の少佐だった。

 女の強いこと強いこと。男と女の喧嘩もみたが、決して男に負けてゐない。我々はタガノロフ到着當時は、髪の毛の違ふのをみて、何か遠いところに来た様な淋しい感じとらわれた。七月だったから薄い洋服に足をすっきり伸ばして、颯爽と歩いてる様を眺めて、大分日本の女と違ふなあーと思った。それが一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。

 髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。中には黒いのもゐた。前にも述べた通り体格がよく乳が大きくて物凄い。尻が太くて足がたくましい。勞働に馴れてるせいか力が強い。

 収容所に居た看護婦シューラーは、独身の若い娘であったが、背丈が五尺六寸位あったらう。我々日本人より大分大きかった。金髪に近い毛色で器量もいゝ方だった。彼女が、捕虜○○が首吊りをして死んだ時現場を見て、此の人にも故郷には親妻子もあるだらうにと云って泣いてゐた。
ところがロスケの噂に依ると、彼女の持物が余り大きいので嫁に貰ひ手がないと云ふことだ。それでその看護婦の前では、絶対にバリショウイ(大きい)と云ふ言葉は使用するな、と云ふ事だった。然し、我々が一九四八年の六月ウラヂオに向かった時は、何時の間にか結婚してゐたし、新婚早々であり乍ら、我々をナホトカの港まで任務とは云ひ乍、送って来て呉れた。

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「一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。」
 収容所にいた父は、当時23歳から25歳。周囲にいる女性はロシア人だけですから、特別の感情を持っても不思議はなかったと思います。果たして、父が好感を持っていたのは誰だったのかなどと考えながら読みました。

 「髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。」 
 意味がよくわかりませんが、父がイメージしていた金髪とは違っていたのでしょうか。

2014年11月8日土曜日

16 労働者

16.勞働者

 勞働者と云ってもピンからキリまでだが、下から記さう。ただし、我々の見た範囲内でだ。大体ロシヤ人は働らかざれば食ふべからず、で皆働いて居る。満何才からかよく知らないが皆働いてゐる。年老は六十歳以上は働かないでもよいと聞いてゐたが、実際に働いてゐる爺さんをみた。彼等は、否、女も同じだ、みんな作業衣を纏ふて街の中を威張って歩いてゐる。普通時は日本人みたいに着飾ってゐない。
一日のパンの配給量が重勞働が7百瓦、事務等は確か四百か五百瓦位だと思った。我が食ふ量から見ればあれ位食ってよく働かれるもんだと思ふ程だ。現在は一人一瓩位までは自由販売だと思ふ。
主食のパンが一九四八年に自由販売になった時のロシヤ人の喜びと云ふものは全く驚く程だった。パン配給所の前は腹一杯食ってやらふと思うロスケの群で一杯だった。此の混雑で七歳の子供が踏み殺されたのも事実だ。それ程迄にロシヤの勞働者と云ふ者は食糧不足に惱まされ續けて来た事が判る。腹一杯になる事なしに仕事々々とで追われて来てゐたのである。であるから捕虜にパンを売ってくれと參百五十瓦のパンを十円か十五円で買ってゐた。
それが、一九四八年の一月に自由販売になった時のパンに飛びつき方は押して知るべし。此の時はボロボロの作業服で二瓩四百の黒パンを脇に抱えて町を行き来してゐた。工場等で腹一杯食って食って残し、食へずに我々に呉れる者も出来てきた。それまでには全然それが出来なかったのである。

ロシヤには乞食は一人もゐないと自慢してゐた。確かに日本などに比べると居ない様にあった。然し全然居ない事はない。
みんな徴用みたいに各工場に割り當てられて働いてゐる。スターリン憲法では働く權利があって各人は職がない場合は、ある機関に申し込めば其處では申込人に対して職を與えてやらねばならぬ義務があるのだ。職種も本人の自由だ。
然し我々の付き合ったロシヤ人は、「俺はどうもこの工場は厭だ。何處々々の工場に代えて呉れて頼んでいるが何時迄もやって呉れない。」と文句云ってゐた。端末の勞働者に至るとこうである。

特殊技能を有する勞働者は非常にいゝ待遇を受ける。仕事は總てノルマ制で仕事量に依ってパーセントが決定され其のパーセントに依って賃金も支払われる。仕事によって一日の百パーセントの単價が違ふが、同一仕事の場合は経験年数や腕の如何に依って級が決められてゐて、其の級に依って同じパーセントでも単價が違るのである。
其の制度が我々捕虜にもそっくり其のまま適用された。それでロシヤの云ふ平等は我々の考えてゐた共産党は皆平等だ、みんな上も下もなく何でも同じだと云ふのでなくして、十働く能力のある者には十働いただけの賃金を渡されるし三しか働けない者には三だけしか賃金は支払はない。其の働き量に相応する報酬を得られると云ふ意味の平等で、スターリン憲法の法律は如何なる共和国の人民でも皆平等にソ聯邦人としての取扱ひを受け平等の權利義務を有すると云ふのである。
飛行機工場に居た若いロシヤ人は、俺はもう仕事したくない、無断で休めば處罰されるから怪我させて呉れ、怪我すれば無条件で休まれると云ふので、拇指の上に「おの」をのせて、之をハンマーで叩いて呉れ、と我々に云ふのだ。そんなことが出来るかいと断って誰もやらなかったら、翌日は拇指に包帯を巻いて痛そうな顔をして出て来た。変な奴も居れば居るもの。
又、代用煉瓦工場に働いてゐた年寄の勞働者は革命前の生活を知ってゐたのか、他のロシヤ人が一人も居なくなるとキョロキョロあたりを見廻し乍ら、スターリンは駄目だ、飯は少ししか食はせんで仕事ばかり多くやらせる、ニコライは日曜日には必ず教會に祈りに行かせたからよかったなあと云っていた。我々が、日本ではお前位の年寄は家に居て孫の子守りしてゐる位が関の山だ、と云ふと羨ましがる様な顔をしたっけ。

又女性勞働者とも煉瓦工場やオスム11と云ふ工場に行ってゐた時に話したが、彼女達は日本の若い女性の様に白粉塗ることなど知らない様だ。そして実に体格もよく足も太くて、痩せて了まった我々の足より余程太くて力が強かった。足も腰も胸も実に發達してゐて体格においては実に頼母しい限りだ。日本の女は家に居て食事の事や子供の事などで働くからお前達みたいにこんな仕事はする者が居ないと話すと之又羨ましがってゐる女が多かった。
男女同權に於いては仕事の上に於いても又然り。木工場に働いてゐた時は女と一緒に働いたが、其處に居たユーリカと云ふ自分より一つか二つ上の女は実に気の強い女だった。材木の大きいのを足の上に落として指一本つぶして血だらけになってゐるのに涙一つ流さずシャーシャーとしてゐた。
此處の木工場には徴用で働いてゐる若い十七、八の娘が七、八人位居たので自分の班員がみんな仕事の余暇にいろいろからかふことからかふことをして、又彼女達はロシヤ人と相対するように我々にも応対するのだ。此處の木工場で力持ち揃ひの自分の作業班が一躍優良作業班の名を貰ひ百參十パーセント以上を完遂してゐたのである。


カーペーペのセメント會社に居た時は大分監督の手先になり闇の手伝ひをしてやった事か。又オスム11で自動車作業の時は砂運搬で定量よりもウンと働いて後一台だけ闇流ししたり、或いは早く定量をやり上げて闇仕事をやったり、闇々闇である。配給ではやはり不足なのか一寸気の利いた奴は殆んど闇を行ってゐるのだ。

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ロシア革命から30年も経っていても、大戦直後という時代のせいかどうか分りませんが、ソ連人民はまるで、ソ連の支配階級から搾取されているような、不思議な感じがします。
抑留からの帰還者が、帰国後、思想教育の状況などについて、警察からの聴取を受けたという話があります(父もそんな話をしていたような気もします)が、このような現地での体験をしていれば、どんな教育を受けていようと、共産主義者になって帰国した人はいなかったのではないかと思います。

2014年11月1日土曜日

13.映画 14.葬式 15.白系ロシヤ人

13.映画

入ソ當時、ポゼットの収容所で隣りの病院で、夜外で映画をやってゐた。日本映画でも占領した奴を一つ見せて呉れんかなあーと思ってゐた。然し捕虜の身にはよ過ぎる願ひか。タガノロフ市に着いて以来約一年位は一つも見ることが出来なかった。1948年の初め頃より収容所にも一月四回は映画が実施されることになった。之は月給より差し引いて映画をやって貰ふのだ。我々の教育に用ひられた。
革命映画、ロシヤの集團農場の映画、復員軍人の映画等々、凡そ大部分は興味を覺えない、つまらないものだ。まして日本文字が画面に出ないのだから、さっぱりニェポニヤーイだ。
今考へれば「恋の魔術師」も一度やって呉れたのだった。闘犬の映画や革命映画等は言葉が判らぬ割に面白かった。映画で感じたことは、実に規模が大きいことだ。領土が広いだけにロシヤ映画もスケェールが大きかった。
  

14.葬式

タガノロフ市に於いて自動車作業中に街の中でロシヤ人の葬列に五、六ぺん遇った。
子供、大人、年老等家族の貧富の状況にもよるだらうが、一番多いのは馬車だ。寝棺を奇麗に草花やリボンで飾り蓋を開いて死顔を奇麗に化粧させて、外から見れるようにして馬車に乗せ、其の直ぐ後に家族の人たちと僧侶が泣き乍ら連いてゆき、其の後に知人等が涙流しつつ寺院に向かって街を歩いてゆくのである。街の中を泣き乍ら歩くのは朝鮮に似ている。良い家庭はトラックを使用して音楽入りで徐行しているのにも出逢った。

15.白系ロシヤ人

 白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐたが、ロシヤの中ではどんな生活をしてゐるだろうか、疑問だった。
タガノロフ市においては飛行機工場内に俘虜収容所みたいに鉄條網を張って宿舎が有り、兵隊の監視が見張ってゐた。抑留生活だ。食事の方は我々よりよかったらしい。其の中でいい年をした品のあるロシヤ人達が柵内をあっちに歩きこっちに歩き散歩してゐた。未だ共産主義に共鳴しないからだとか。同じロシヤ人であり乍ら、捕虜みたいに籠の鳥にされてゐる。実に可哀そうに感じた。
此所の収容所にゐる連中は相當の学識もあり、頭もよいので、飛行機の製図工場で使用されてゐる。試作機の設計製作を擔当してゐたのだ。奴さん達の働いてゐた工場は、入り口に之又ロスケの兵隊がゐて證明書を持ってゐる者しか絶対には入れなかった。
我々は此處の床の仕事の為に一度入って製図机の間を通ったことがあるが、此處で働いているロシヤ人は、一般に学識者らしいのが多い。若い女なども映画に出て来る様な服装したのも大分見受けられた。他の我等の働く工場の女は勞働者の程度の低い奴だから、此處では一さう目立つ譯だらう。

設計製図は本職だから関心持って盗み見しようと思ったが、大して望は達し得なかった。飛行機の実物体の図面を引く大きな図板は始めてみた。兎に角白系ロシヤ人は自分の国内でかゝる抑留生活を余儀なくされてゐるのだ。


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「13.映画」で『恋の魔術師』と出てきますが、『恋は魔術師』の間違いのようです。1947年のベネチア映画祭の脚本賞受賞作品。日本では、ちょうど父が帰国した1948年の夏頃公開されたようです。
http://eiga.com/movie/67520/

ニェポニヤーイ」は意味が分かりません。どなたかわかる方がいらっしゃったら教えてください。

陸上戦はなかったもののの日露戦争での敵同士なので、「白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐた」ということ自体、ちょっと意外ですが、ソ連の敵はロシアの味方、ということだったのでしょうか。日本人への好感は、最後の方でも出てきますので、間違いないのだと思います。

父は、工業学校の機械科を出ていたので、飛行機工場の中や製図工場ではたぶん興味津々だったのだと思います。