2014年11月8日土曜日

16 労働者

16.勞働者

 勞働者と云ってもピンからキリまでだが、下から記さう。ただし、我々の見た範囲内でだ。大体ロシヤ人は働らかざれば食ふべからず、で皆働いて居る。満何才からかよく知らないが皆働いてゐる。年老は六十歳以上は働かないでもよいと聞いてゐたが、実際に働いてゐる爺さんをみた。彼等は、否、女も同じだ、みんな作業衣を纏ふて街の中を威張って歩いてゐる。普通時は日本人みたいに着飾ってゐない。
一日のパンの配給量が重勞働が7百瓦、事務等は確か四百か五百瓦位だと思った。我が食ふ量から見ればあれ位食ってよく働かれるもんだと思ふ程だ。現在は一人一瓩位までは自由販売だと思ふ。
主食のパンが一九四八年に自由販売になった時のロシヤ人の喜びと云ふものは全く驚く程だった。パン配給所の前は腹一杯食ってやらふと思うロスケの群で一杯だった。此の混雑で七歳の子供が踏み殺されたのも事実だ。それ程迄にロシヤの勞働者と云ふ者は食糧不足に惱まされ續けて来た事が判る。腹一杯になる事なしに仕事々々とで追われて来てゐたのである。であるから捕虜にパンを売ってくれと參百五十瓦のパンを十円か十五円で買ってゐた。
それが、一九四八年の一月に自由販売になった時のパンに飛びつき方は押して知るべし。此の時はボロボロの作業服で二瓩四百の黒パンを脇に抱えて町を行き来してゐた。工場等で腹一杯食って食って残し、食へずに我々に呉れる者も出来てきた。それまでには全然それが出来なかったのである。

ロシヤには乞食は一人もゐないと自慢してゐた。確かに日本などに比べると居ない様にあった。然し全然居ない事はない。
みんな徴用みたいに各工場に割り當てられて働いてゐる。スターリン憲法では働く權利があって各人は職がない場合は、ある機関に申し込めば其處では申込人に対して職を與えてやらねばならぬ義務があるのだ。職種も本人の自由だ。
然し我々の付き合ったロシヤ人は、「俺はどうもこの工場は厭だ。何處々々の工場に代えて呉れて頼んでいるが何時迄もやって呉れない。」と文句云ってゐた。端末の勞働者に至るとこうである。

特殊技能を有する勞働者は非常にいゝ待遇を受ける。仕事は總てノルマ制で仕事量に依ってパーセントが決定され其のパーセントに依って賃金も支払われる。仕事によって一日の百パーセントの単價が違ふが、同一仕事の場合は経験年数や腕の如何に依って級が決められてゐて、其の級に依って同じパーセントでも単價が違るのである。
其の制度が我々捕虜にもそっくり其のまま適用された。それでロシヤの云ふ平等は我々の考えてゐた共産党は皆平等だ、みんな上も下もなく何でも同じだと云ふのでなくして、十働く能力のある者には十働いただけの賃金を渡されるし三しか働けない者には三だけしか賃金は支払はない。其の働き量に相応する報酬を得られると云ふ意味の平等で、スターリン憲法の法律は如何なる共和国の人民でも皆平等にソ聯邦人としての取扱ひを受け平等の權利義務を有すると云ふのである。
飛行機工場に居た若いロシヤ人は、俺はもう仕事したくない、無断で休めば處罰されるから怪我させて呉れ、怪我すれば無条件で休まれると云ふので、拇指の上に「おの」をのせて、之をハンマーで叩いて呉れ、と我々に云ふのだ。そんなことが出来るかいと断って誰もやらなかったら、翌日は拇指に包帯を巻いて痛そうな顔をして出て来た。変な奴も居れば居るもの。
又、代用煉瓦工場に働いてゐた年寄の勞働者は革命前の生活を知ってゐたのか、他のロシヤ人が一人も居なくなるとキョロキョロあたりを見廻し乍ら、スターリンは駄目だ、飯は少ししか食はせんで仕事ばかり多くやらせる、ニコライは日曜日には必ず教會に祈りに行かせたからよかったなあと云っていた。我々が、日本ではお前位の年寄は家に居て孫の子守りしてゐる位が関の山だ、と云ふと羨ましがる様な顔をしたっけ。

又女性勞働者とも煉瓦工場やオスム11と云ふ工場に行ってゐた時に話したが、彼女達は日本の若い女性の様に白粉塗ることなど知らない様だ。そして実に体格もよく足も太くて、痩せて了まった我々の足より余程太くて力が強かった。足も腰も胸も実に發達してゐて体格においては実に頼母しい限りだ。日本の女は家に居て食事の事や子供の事などで働くからお前達みたいにこんな仕事はする者が居ないと話すと之又羨ましがってゐる女が多かった。
男女同權に於いては仕事の上に於いても又然り。木工場に働いてゐた時は女と一緒に働いたが、其處に居たユーリカと云ふ自分より一つか二つ上の女は実に気の強い女だった。材木の大きいのを足の上に落として指一本つぶして血だらけになってゐるのに涙一つ流さずシャーシャーとしてゐた。
此處の木工場には徴用で働いてゐる若い十七、八の娘が七、八人位居たので自分の班員がみんな仕事の余暇にいろいろからかふことからかふことをして、又彼女達はロシヤ人と相対するように我々にも応対するのだ。此處の木工場で力持ち揃ひの自分の作業班が一躍優良作業班の名を貰ひ百參十パーセント以上を完遂してゐたのである。


カーペーペのセメント會社に居た時は大分監督の手先になり闇の手伝ひをしてやった事か。又オスム11で自動車作業の時は砂運搬で定量よりもウンと働いて後一台だけ闇流ししたり、或いは早く定量をやり上げて闇仕事をやったり、闇々闇である。配給ではやはり不足なのか一寸気の利いた奴は殆んど闇を行ってゐるのだ。

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ロシア革命から30年も経っていても、大戦直後という時代のせいかどうか分りませんが、ソ連人民はまるで、ソ連の支配階級から搾取されているような、不思議な感じがします。
抑留からの帰還者が、帰国後、思想教育の状況などについて、警察からの聴取を受けたという話があります(父もそんな話をしていたような気もします)が、このような現地での体験をしていれば、どんな教育を受けていようと、共産主義者になって帰国した人はいなかったのではないかと思います。

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