2014年11月1日土曜日

13.映画 14.葬式 15.白系ロシヤ人

13.映画

入ソ當時、ポゼットの収容所で隣りの病院で、夜外で映画をやってゐた。日本映画でも占領した奴を一つ見せて呉れんかなあーと思ってゐた。然し捕虜の身にはよ過ぎる願ひか。タガノロフ市に着いて以来約一年位は一つも見ることが出来なかった。1948年の初め頃より収容所にも一月四回は映画が実施されることになった。之は月給より差し引いて映画をやって貰ふのだ。我々の教育に用ひられた。
革命映画、ロシヤの集團農場の映画、復員軍人の映画等々、凡そ大部分は興味を覺えない、つまらないものだ。まして日本文字が画面に出ないのだから、さっぱりニェポニヤーイだ。
今考へれば「恋の魔術師」も一度やって呉れたのだった。闘犬の映画や革命映画等は言葉が判らぬ割に面白かった。映画で感じたことは、実に規模が大きいことだ。領土が広いだけにロシヤ映画もスケェールが大きかった。
  

14.葬式

タガノロフ市に於いて自動車作業中に街の中でロシヤ人の葬列に五、六ぺん遇った。
子供、大人、年老等家族の貧富の状況にもよるだらうが、一番多いのは馬車だ。寝棺を奇麗に草花やリボンで飾り蓋を開いて死顔を奇麗に化粧させて、外から見れるようにして馬車に乗せ、其の直ぐ後に家族の人たちと僧侶が泣き乍ら連いてゆき、其の後に知人等が涙流しつつ寺院に向かって街を歩いてゆくのである。街の中を泣き乍ら歩くのは朝鮮に似ている。良い家庭はトラックを使用して音楽入りで徐行しているのにも出逢った。

15.白系ロシヤ人

 白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐたが、ロシヤの中ではどんな生活をしてゐるだろうか、疑問だった。
タガノロフ市においては飛行機工場内に俘虜収容所みたいに鉄條網を張って宿舎が有り、兵隊の監視が見張ってゐた。抑留生活だ。食事の方は我々よりよかったらしい。其の中でいい年をした品のあるロシヤ人達が柵内をあっちに歩きこっちに歩き散歩してゐた。未だ共産主義に共鳴しないからだとか。同じロシヤ人であり乍ら、捕虜みたいに籠の鳥にされてゐる。実に可哀そうに感じた。
此所の収容所にゐる連中は相當の学識もあり、頭もよいので、飛行機の製図工場で使用されてゐる。試作機の設計製作を擔当してゐたのだ。奴さん達の働いてゐた工場は、入り口に之又ロスケの兵隊がゐて證明書を持ってゐる者しか絶対には入れなかった。
我々は此處の床の仕事の為に一度入って製図机の間を通ったことがあるが、此處で働いているロシヤ人は、一般に学識者らしいのが多い。若い女なども映画に出て来る様な服装したのも大分見受けられた。他の我等の働く工場の女は勞働者の程度の低い奴だから、此處では一さう目立つ譯だらう。

設計製図は本職だから関心持って盗み見しようと思ったが、大して望は達し得なかった。飛行機の実物体の図面を引く大きな図板は始めてみた。兎に角白系ロシヤ人は自分の国内でかゝる抑留生活を余儀なくされてゐるのだ。


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「13.映画」で『恋の魔術師』と出てきますが、『恋は魔術師』の間違いのようです。1947年のベネチア映画祭の脚本賞受賞作品。日本では、ちょうど父が帰国した1948年の夏頃公開されたようです。
http://eiga.com/movie/67520/

ニェポニヤーイ」は意味が分かりません。どなたかわかる方がいらっしゃったら教えてください。

陸上戦はなかったもののの日露戦争での敵同士なので、「白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐた」ということ自体、ちょっと意外ですが、ソ連の敵はロシアの味方、ということだったのでしょうか。日本人への好感は、最後の方でも出てきますので、間違いないのだと思います。

父は、工業学校の機械科を出ていたので、飛行機工場の中や製図工場ではたぶん興味津々だったのだと思います。

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