2014年12月28日日曜日

【ちょっとお休み その2】 本当のシベリアは・・・

 今週も、お休みをいただいて・・・。

 父が収容所生活を送ったタガンログは、比較的に温暖で、どちらかといえば都市部ということなので、恵まれていたのかもしれませんが、バイカル湖周辺やハバロフスク北方のツンドラ地帯にも多くの日本兵が抑留されていました。
 そこでは、日中でもマイナス30℃とか40℃までしか上がらないような、厳冬の地域もあり、そこでは、たくさんの方が亡くなっています。このような地域には、あまり人も住んでおらず、物資も少なければ病院もないわけですから、ほんのちょっとした病気や怪我でも命を落とすことになったのだろうと思われます。

 このような地域に、抑留された方の手記もたくさんのあり、私も最近少しずつ読んでいますが、中でも、高橋秀雄さんという方が書かれたものをご紹介したいと思います。

「私のシベリア抑留記」
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

 この方は、バイカル湖西方のイルクーツク地方のチュレンホーヴォの収容所で、昭和20年の暮れ頃から24年の秋まで抑留生活を送られました。
 シベリア鉄道での移動途中で悩まされた虱の話などは共通ですが、日本軍時代から続いた「初年兵苛め」をはじめとする階級差別と、その反動として過激化した民主運動(捕虜同士の殺人も起こった収容所もあったようです)のことなどは、父の手記からはわかりませんでした。

 「シベリアに護送された時軍隊戦友が四千余人だったが、無事帰還できたのは二千四百余人であった。」という記述があります。

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/chihou/irukutuku/index.html

 厚生労働省のHP(埋葬津別死亡者名簿)で公開されている資料を見ても、どれが、チュレンホーヴォの収容所かよく分かりませんが、記事中に出てくる亡くなった「下山一等兵」の「下山」を頼りに、名前を探すと1人だけ出てきます。

第32収容所・第6支部グリシェフ村 「下山勝治」さん
http://www.mhlw.go.jp/topics//syakai/soren/chihou/irukutuku/html/4052.html

 仮にこの「第32収容所」がチュレンホーヴォの収容所だったすると、収容所内に埋葬された方々がおおよそ800名、近くと思われる病院で死亡された方が800名弱ということでこれに符合するようです。
 とても厳しい収容所生活だったことでしょう。 

2014年12月21日日曜日

【ちょっとお休み・その1】 タガンログについて

 これまで、4ヶ月にわたっって、父の手記を公開してきましたが、ここで、ちょっとお休みをして、父が、抑留生活を送ったタガンログという街をご紹介 ~ というほど詳しくはありません。もちろん行ったこともありません。 ~ したいと思います。

 「シベリア抑留記」としてきましたが、父が抑留されていた収容所があったところは、黒海に繋がるアゾフ海沿いに位置しています。


 17世紀の終わりに、ピョートル大帝がロシア艦隊の基地として作った街で、19世紀には交易で栄えたそうで、現在も港湾を生かした産業が盛んな地域だと思われます。
 1941年から43年までドイツ軍に占領されていた時期もあったようです。

 人口は約28万人。チェーホフの生まれ暮らした地として有名で、生家のほかにミュージアムなどチェーホフゆかりの施設を含め観光スポット多いようです。

http://www.taganrogcity.com/index.html


 厚生労働省が公表している資料(元はソ連邦が公開したもの)によると、タガンログ周辺では、250kmほど北のドゥルシコフに野戦病院があり、106人の死亡者あったとされています。また、さらに北へ500kmのハリコフという街の墓地等には50名を超える死者が埋葬されたとのこと。
 そのほか、西へ340kmのサポロージェ、さらに北西へ300kmのドニエプロペトロフスクにも収容所があったとされています。

厚生労働省HPより


2014年12月13日土曜日

22 壁新聞 、 23 生産会議

22.壁新聞

 ロシヤの国は本當に壁新聞を十分に活用してゐる。
いろんな工場の状況や思想教育、生産促進対策等、内地の新聞紙大の額の中に絵迄入れて各工場等、工員休憩所に掛けてある。我々の収容所でもロスケの命令で中隊毎に壁新聞を作ることになった。
 原かう[稿]は、中隊全員に募集して、その中より選定して壁新聞に發表する。此の中に論文あり、中隊の声として隊員の要望事項あり、文藝欄あり、生産促進の対策についての意見あり、と云った具合で、その中隊の壁新聞を読めば、大体中隊の空気なるものが察しがつくと云ったところだった。
 それに又漫画新聞がある。之は絵の上手なのが、漫画をその時にマッチするように書いて、面白く宣伝しやうと云ふのである。
 之等は一週に一度新しいのと貼り代へた。この様な壁新聞、漫画新聞なるものは皆から次々に集まってくるところの原コウに依って完成してゆくのであるから、工場なら工場の、中隊なら中隊の各人かくじんの盛り上る声である譯だ。それに対して経験の優れた人、学識のある人、即ち指導者がよい結論を與へて、善導してゆくならば確かに民主主義である。
 
 だから、壁新聞は現在の大江工場あたりも使用して大いに啓蒙して行くならば面白いであらうし、又工場全体の空気がどんな状態であるかも想像がつく事であらうと思ふ。


23.生産會議

 ロシヤでは、一月に一回乃至二回、生産會議なるものを開いてゐる。
 工場内に働く勞働者は作業班が編成されて、班長以下五、六名が一グループになって一つの作業に従事してゐる。そう云ふ作業班が幾つか集まって工場作業が行はれてゐる譯だ。
そして一月の中には各作業班の仕事の完遂量がパーセントに依って發表される。百パーセント以上もあれば以下もあるが、之等の作業班長が集合して、その月の仕事完遂量に対していろいろ意見をのべ合ふのが生産會議である。
 自分の作業班は今月はどうしたからこんな良パーセントを貰へたか、又は自分の作業班はどの点が悪かったからパーセントがよくなかったとか、今後の生産をよくするために作業班長若しくは班の代表者が意見をのべ、その対策を研究するのが生産會議であった。
此の時に作業成績の良かった班は賞められるし、悪かった班は叱られる。ロシヤの様な總てが国民によって管理されてゐるところは仕事量が制定されている関係上、こうやって生産能率の昂揚を図ってゐる譯だ。

 我々の今働いてゐる工場でも之を真似る必要はないが、右の様な計画を立ててみたら、未だお互ひ同志の手で生産能率は上昇するのでなからうかと思ふ。
現在行はれてゐる課長打合せ會議も悪くはないが、組長以上位集めてザックバランに意見述べ合ったら面白いだらうと思ってゐる。


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 父は戦前、大蔵省専売局に就職し、戦後も定年まで、専売公社(のちの日本たばこ㈱=JT)に勤めました。
 戦後、いつ頃から復職したかは定かではありませんが、ソ連から帰国すると熊本の実家に帰り、そのまま、熊本の工場に勤務したものと思われます。 文中に出てくる「大江工場」は、後の「熊本工場」(熊本市中央区大江、県立劇場前)のことです。
 たばこ工場は、喫煙者数の減少もあり、九州では、福岡、大分(臼杵)などとともに熊本工場も閉鎖となり、今では北九州工場一つだけになっています。

 父のソ連での経験がどの程度、帰国後の現場で生かせたのかは分かりませんが、「生産會議」を経験した多くの日本人が、帰国後に生産現場戻っていったわけですから、ひょっとして、その後の高度成長や「カイゼン」に繋がって行ったのかもしれません。

2014年12月6日土曜日

21 かっぱらいについて

21.かっぱらいについて

 現在の日本でもさうだが、泥棒や空き巣が横行してゐて一寸の油断も出来ない。

鉄のカーテンの内でも、こそ泥は非常に多い。と云っても勞働者や各個人々々の家へ侵入すると言ふことは、良く知らないが、我々の居たタガロノフ市の状態は、国家管理になってゐる會社が大分あったが、其處にある材料、製品、または糧秣等ちょいちょいロシヤ人が持って歸って了ふ。そしてそれを闇市場へ持って行って売るか、物々交換をやる譯である。

我々が働いてゐた飛行機試作工場内では、捕虜を監督する立場のロスケが大きな闇を平気でやってのける。トラックで石炭でも運搬する様な場合には、石炭持出證明は正式に書いて貰って闇にならないが、其の石炭の下に鉄板の広いものを隠したり、板類を忍ばせたりして持出し、闇値で売り飛ばして私服を肥やしてゐる。その仕事に我々もちょいちょい手伝はされた。
材木工場では工場の外柵から潜り込んで、材木を引きずり出して、之又闇市へ売って来る。停車場等に貨車が停車してゐると、中に糧秣でも積んであれば、歩哨の眼を盗んでちょこっとかっぱらっていゆく。子供だからと思って油断してゐると、大人も顔負する位の大仕事をやり出すから叶はん。
貨車等板までひっぱいで中にもぐり込み麦等大量[]かっぱらふのをみたことがある。煉瓦工場では採集した土の乾燥をさせるベルトコンベアーを巾が二、參尺の長さか何十尺と云ふものをごっそり持って行って了はれて、早速明朝より仕事が出来なかった。
ロシヤの警察は此の様な時にはセパードを使用して犯人を捜索する。コンベヤーの時は犬の嗅覺によれば海岸まで運んで舟で逃げたらしいことが判明した。人殺しはたった一辺だけ目撃した。言葉も字もはっきり判らなかったが、警察力は戦前の日本程にないだらうと思った。

ロシヤ人の間に以上の様な闇やかっぱらいがはやるので、我々も大分得をしたこともある。我々の監督が闇をやる時には、それに手伝ひをして、何か分け前を貰ふ。それにパーセント迄増して貰った自動車積み込みの作業では、砂運搬でもやる時は一日四台を目的地に運べばいいものをその四回を早く終って、あとは一、二台余計運搬し民間に横流ししてそれ相當のルーブル(円)を貰ふ。それに此の時の往きかへりには街から海岸へ行く人、海岸から街へ出る人を十円均一でトラックに乗せてやり、之だけでも五、六回往復すれば相當の額に上る。こんな時には運轉手がご馳走して呉れるか現金を分けて呉れるので、我々は大いに助かったのだ。
収容所内でも硝子がわれりゃ工場から持って来い、電球が切れたら支給して呉れ、と請求すれば工場に澤山あるから持って来い、とロスケの幹部が言ふので、何とかして必要なものは工場の品物を収容所に運び込んだ。収容所に是非必要なものをかっぱらって来れば夕食を余計に呉れる。そして大体揃って不便を感じなくなると、工場からの物品持出しは刑法に引っかかるから絶対に持ち出してはならない、と注意される。丸で泥棒の養成所みたいだった。

或る霧の深い日に、自分の作業班八名だけでトラック二台に便乗してタガノロフ駅より煉瓦工場に石炭を運搬した時には、霧の深いのを幸にして、径七、八寸の丸太二米位の材木を石炭の下に埋め込んで、知らぬ顔をして構内を出て了ひ、バザール(闇市場)の前迄来て掘り出して二本八〇円で売り飛ばし、黒パンの大きい奴を買って食ったこともある。此の時は運轉手と監督は20円ずつ位握らせたら上機嫌だった。
又線路工事をやってゐる時には、枕木の腐食したのを掘り起こすと、何時の間にやら子供が持って行って了ふ。木材類はシベリヤと違って、一寸した街中だから実に値が高くて、薪類に不自由してゐたからだらう。石炭なんかも見張り員なしで野積みしてあれば忽ちかっぱらわれて了ふ。

以上の様な状態だから工場の守衛は皆小銃持って、兵隊の歩哨みたいに動哨してゐるし、糧秣倉庫、駅の構内等には必ず小銃を持った監視が立ってゐる。タガノロフ市に到着した當座は我々捕虜が行ったので特別警戒してゐるのかと思ってゐたのだが、何のロシヤ人事態を監視してゐたのである。同じ国民同士であり乍ら小銃に実砲迄装填して監視せんでもいいんぢゃあないかなと思ふと一寸変な感じがした。

では此の現行犯で捕へられた者の罰はなかなか重い。特に糧秣関係の犯罪はひどいさうである。体刑の三、四年は普通らしい。一寸重いのは總てシベリヤに送られて強制勞働収容所に入れられて兵隊の歩哨に剣突きつけられながら重勞働に服せねばならないのだ。ロシア人は一年二年の懲役は何とも思っていない。

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「現在の日本でもさうだが」というのは、父がこの手記を書いていた昭和23年の暮れから翌24年の初め、まだまだ戦後の物資不足が続いていたころでしょうから、「闇市」もあったでしょうし、かっぱらいも多かったのだと思います。

父のいた収容所は、前にも書いたように、黒海に続くアゾフ海に面する軍港都市にあったので、上記にも出てくる工場などもあり、比較的に物資もあったので、「横流し」などで得たお金で、パンを買ったり煙草を買ったりできたのだと思います。
こうしたこともできない環境の収容所で生活された人たちは、ただただ厳しい生活を送られていたのではないでしょうか。

2014年11月29日土曜日

20 教育

20.教育

我々同胞百何十萬をわざわざシベリヤ、ロシア本国に莫大なる輸送費と時間を費やして引っ張り込んだのかよく考えてみる時に、人的資源の補充、之もあるだらう。然し何と云っても共産教育が最も大なる原因だらうと思われる。では我々は在ソ中には今迄書いた様な勞働に服務させられて来たが教育にどの様な手段で手を打たれたかを述べよう。

朝鮮で収容されて以来タガノロフ市到着迄は思想教育なるものは全然施されなかった。タガノロフ市でラボータ(作業)やりだしてからボツボツ始まった。
日本新聞と云って日本時俘虜向にハバロフスクで發行した日本語版の新聞が回覧された。之は相當共産化された日本人が編輯してゐるらしかった。内容は、今迄の日本軍隊の趹点、天皇制打倒等で一杯だった。之は兵隊四、五名に一枚の割で配られた。我々は等分して煙草巻きに用いてゐた。内容を読んでも大して信用する気も起らなかった。

所が他収容所より来られた○○少佐が始められた研究會に依って民主教育も着々として發達して来た。先づ最初研究會に入會した熱心なる者二十名位選定して毎日の作業に、内務に或いは日曜、夕食后の音楽、演藝等に積極的に働きかけた。
収容所幹部の後だてもあり其の勢力も益々大きくなり、四ヶ中隊ある各中隊にも委員が四、五名出来教育も本格的になった。作業も八時間勞働でグッタリ疲れて歸ってくると夕食後は討論會が実施される。木曜日には副所長より講義を受けた各中隊の講師四名が四ヶ小隊の各小隊に教育をする。最初は聴講者が少ないので各小隊に責任者を置いてそのものが責任持って小隊員を集合させる如く定められ、其の教育場所にロスケが廻って見に来る様になった。
欠席でもして寝ていればロスケに見つかったら大変なもの。皆聞く様になった。其の中に千參百名の人員の約參百民主グループ員が會員になった時に、収容所内の民主グループ大會が食堂に於いて開催された。之が第一回大會である。もう此の頃になるとグループに入らないと歸るのが遅れるかも知れないと云う不安があるので皆加入し始めた。

赤旗の歌も覺えさせられた。共産主義の教育も聞く積りで居なくとも耳に入り大分聞かせられた。教えられる理論は成る程と感心させられる。然し翌日工場で働き乍ら考へてゐるとロシヤの社會は果たしてさうであるか、教はった理論と反する事が大分感ぜられる。やっぱり何と上手なことを云ふても実際とは合はぬぢゃないかと思ふが、又講義を聴くと何時の間にか引きずり込まれてゐて、さうかなあーと思ってゐる。
資本主義の悪いところを並べられると確かに悪いことが事実だ。それに共産主義を比較する我々勞働者には絶対に共産主義はいゝやうに思われるが、実際のロシヤ人の生活、分けても下級の勞働者に云はせると不平だらだらだ。こんな具合で頭が混乱して了ふ位だった。

一九四八年に入ってからは上映する映画はロシヤの革命映画、集團農場の映画とか思想教育用のが主で、それに時々拳闘や闘犬映画もみせて呉れた。演藝會があると、劇の題材は皆ロスケが検閲して実施させる。勿論思想ものだ。
我々は毎日の作業から疲れて歸って来るので、もう教育は止めて呉れ、と皆腹では思ってゐるのだが口では言へない。本當の民主運動と云ふものは、各人が苦しければ苦しい程、順調なる時よりも強く、各人々々に盛り上がってくる力でなくてはならないのだ。
我々俘虜も旧軍隊制より解放されて民主運動を叫ぶ様になった。だからさぞかし自由に何事でも出来るだろうと思うと大間違いだ。千參百居るお互いが決定し合った事項を履行して行くには軍隊制より尚一層の嚴格なる民主規律が必要なのである。各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬのだ。そして其の定められた範囲内で自由があり平等がある。

現在の日本国民は進駐軍の占領下にあるのであり、いろいろの政党問題もやゝこしいが、米国進駐軍、日本、日本の復興との関係をよく考へて、政党とか何とか考へずにお互い日本民族であるとの自覺の下に[読取不明]して、一致團結して復興に邁進すべきだと思ふ。その為には結局政党に関係して来るが、自分としては未だに共産党か民主党か民主自由党か社會党か、今のところ世間を熟視して見ないと黒か白か不明である。共産党が日本の政府を執ったとしてもロシヤの様な社會になるとしたら断然厭である。


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断然厭である。」
心底、そう思ったのでしょう。
2年間の収容所生活で、自身の労働体験ばかりか、ロシア人の暮らしぶりを目の当たりにして、いかに耳触りのいいことばかり教え込まれても、実感の持てない主義、主張には賛同できななかったということでしょうか。

「各人が各人々々の迷惑になるような事をせず、お互いの為によりよき社會を形成していかねばならぬ」
これが、父の行動哲学ではなかったと思います。私たちが子供のころ「人に迷惑をかけてはいけない」ということを、何事かにつけ言われていた記憶があります。
この一文を読んで、とても懐かしい思いに捕らわれます。



2014年11月22日土曜日

19 ダモイのデマ

19.ダモイのデマ

我々は何時になったら日本へ歸れるのだらうか。スターリンは歸す気があるのだらうか。褌一本でもいゝから歸してさへ呉れたらいゝがなあ。
これはシベリヤに引張られたる者の共通の、然も最大の願望だった。
歸ったら一番先に食ふものは何か。俺は先づ風呂に入って捕虜の汚れを落としてから銀飯に澤庵でいゝ。俺はボタモチのコッテリ甘いのを腹一杯食ふんだ。俺は何と云っても酒だ。と、何を云っても食ひ物の話だ。
皆復員の夢をたのしく描いてゐる。反面捕虜で歸るんだから晝間は恥ずかしいだらうな。親爺はどんな顔をするんだらう。俺達は天皇陛下の命令で中止したんだから仕様ねえや、と云ふ心配もあった。
千參百も居る収容所内では誰か一人でも、今年何月にや歸れる、今日ロスケが云ふた、とでも云はうものなら忽ちにして所内に擴がる。戦友が一寸でもそんな話をして居るのを立ち聞きすれば根掘葉掘、聞くのに一生懸命だ。
そしてその月の楽しみにしてゐるとその月は何時の間にやら過ぎて過ぎて了う。あゝだまされた。之が二年の間何回となく繰返へされた。然しそんなに何度もだまされたと知ってゐながらそんな話を一寸でも聞けば又真面目になって聞き出すのだ。

ほのかに歸る希望を抱いてゐる内地に歸る夢。家に歸り着いて皆と顔を合はせたが、誰も顔を見ただけで物を云はない。やっぱり捕虜になって歸ったからだらう。家の畳でボタモチを皿一杯出されて食はふとするがどうしても喉を通らなかったり、皆夢だ。この様な夢もみる時には一週間位續けてみるが後は二、參ヶ月も全然みない。確かに周期を持って家の夢が廻って来る。こんな時には家の方でもそんな夢をみてゐるかも知れない。

それから葉書を出せる様になってから皆自分の家へ出した。その返事が一九四八年の春頃になって来始めた時の喜び。俺の子供相當大きくなってゐるらしい、家内も元気だとはしゃぎ廻る者。米が一升幾らになってゐるさうだとか、内地のニュースを皆でよってたかって聞いてゐた。

中には自分みたいに終戦後に妹が病死したと云ふ便りを貰った者もいるだらう。然し自分は朝鮮に居る時の九州の空襲状況も情報では入って居たので家族全部死んぢゃいないだらうかと云ふ不安もあった。それでロスケから葉書を受け取って一読した瞬間は親爺の見覺えある字をみて一人だけでよかった、他は皆元気だと安心が起った。
しかし自分の寝台に歸り着いて落着くとやっぱり涙がにじんで来た。二十幾かにまでなってと思ふと、肉親の情と云ふものは何萬里離れても同じで変らぬ。家も焼けて居らずに本當に心から安心した譯で益々一日も早く歸り度くなった。

一九四七年の五月には収容所内では我々輸送列車の指揮のメンバー迄決まって愈々内地ダモーイの内命がスターリンからあったと云ふので、収容所内でも貨車の設備の準備までして本當の命令の来るのを待ったが、七月になっても八月も九月も遂に来づ、我々をより一層落膽させ又寒い厭な冬を越させて了った。
一冬と簡単に云ふけれども、シベリヤに居るものにとって冬程苦しい時はないのだ。その苦しみは一寸云ひ表し得ないだらう。一冬のびただけで何名の日本人が栄養失調で、作業上の事故で死亡し又病気するか。今も尚四十萬の同胞が残ってゐるかを思ふとゾッとする。彼等はきっと寒さと疲勞の中に、来春には家に歸る日が来るであらう、一日々々を暮らしその日の来たらん事を願ってゐるであらう。



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 ロシア語「ダモイ」というのは、go home の home という意味のようですが、収容所の日本兵の間では、帰国、復員を意味する合言葉のように使われていたとのこと。
 父たちのソ連での収容所生活は2年間でしたが、もっと長く抑留されていた収容所では、こんなデマが何度も流れては、期待と落胆の繰り返し・・・、そしてあきらめにも繋がるでしょう。収容所生活の辛さの一面です。
 
 文中の叔母が亡くなったのは、終戦後間もない昭和20年11月7日。享年21歳。詳しくは聞いていませんが、結核ではなかったかと思います。たしか、すぐ下の妹だったので、ショックではあったのだと思います。

 私たちの実家の界隈は、熊本大空襲での被害は免れましたが、米軍機の無差別機銃掃射を受けたという話を聞いたことがあります。実家にも機関砲の銃弾が残っていましたし、近所では子供が亡くなったそうです。

2014年11月15日土曜日

17 病院 、 18 女

17.病院

 ロシアに於いては、病院は總べて國家管理であって、治療費は官費である。医療は病気に依って施療日数が決まってゐる相だ。手先の負傷は十五日と決まってとゐる、すると指先の負傷がやゝこしくて其の日数で治りさうにないと、根元から切断されて了ふ。それのほうが治りが実際に早い相である。でロシア人を見るに、日本人より手足の不具者が多い様だった。右之様な制度の弊害は実際にあるか否か、自分が病院へ行って見た譯ではない。
 不具者が多いと云ふのは、ロシアの医学がそれだけ遅れてゐる何よりの證據だ。

 ロシアの地方人は入院するもの全部頭は坊主にされ、脇毛も陰毛も人体に生えてゐる毛はそり落とされる。これは虱予防の爲ださうである。

18.女

 男女同權の下にロシアの女は、男に負けずあらゆる方面に活動してゐる。ニュース等で聞く通り、女の兵隊も居る。軍医、看護婦等は女だ。ほとんどと云っていい位だろう。したがって我々捕虜の軍医は女医の少佐だった。

 女の強いこと強いこと。男と女の喧嘩もみたが、決して男に負けてゐない。我々はタガノロフ到着當時は、髪の毛の違ふのをみて、何か遠いところに来た様な淋しい感じとらわれた。七月だったから薄い洋服に足をすっきり伸ばして、颯爽と歩いてる様を眺めて、大分日本の女と違ふなあーと思った。それが一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。

 髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。中には黒いのもゐた。前にも述べた通り体格がよく乳が大きくて物凄い。尻が太くて足がたくましい。勞働に馴れてるせいか力が強い。

 収容所に居た看護婦シューラーは、独身の若い娘であったが、背丈が五尺六寸位あったらう。我々日本人より大分大きかった。金髪に近い毛色で器量もいゝ方だった。彼女が、捕虜○○が首吊りをして死んだ時現場を見て、此の人にも故郷には親妻子もあるだらうにと云って泣いてゐた。
ところがロスケの噂に依ると、彼女の持物が余り大きいので嫁に貰ひ手がないと云ふことだ。それでその看護婦の前では、絶対にバリショウイ(大きい)と云ふ言葉は使用するな、と云ふ事だった。然し、我々が一九四八年の六月ウラヂオに向かった時は、何時の間にか結婚してゐたし、新婚早々であり乍ら、我々をナホトカの港まで任務とは云ひ乍、送って来て呉れた。

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「一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。」
 収容所にいた父は、当時23歳から25歳。周囲にいる女性はロシア人だけですから、特別の感情を持っても不思議はなかったと思います。果たして、父が好感を持っていたのは誰だったのかなどと考えながら読みました。

 「髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。」 
 意味がよくわかりませんが、父がイメージしていた金髪とは違っていたのでしょうか。

2014年11月8日土曜日

16 労働者

16.勞働者

 勞働者と云ってもピンからキリまでだが、下から記さう。ただし、我々の見た範囲内でだ。大体ロシヤ人は働らかざれば食ふべからず、で皆働いて居る。満何才からかよく知らないが皆働いてゐる。年老は六十歳以上は働かないでもよいと聞いてゐたが、実際に働いてゐる爺さんをみた。彼等は、否、女も同じだ、みんな作業衣を纏ふて街の中を威張って歩いてゐる。普通時は日本人みたいに着飾ってゐない。
一日のパンの配給量が重勞働が7百瓦、事務等は確か四百か五百瓦位だと思った。我が食ふ量から見ればあれ位食ってよく働かれるもんだと思ふ程だ。現在は一人一瓩位までは自由販売だと思ふ。
主食のパンが一九四八年に自由販売になった時のロシヤ人の喜びと云ふものは全く驚く程だった。パン配給所の前は腹一杯食ってやらふと思うロスケの群で一杯だった。此の混雑で七歳の子供が踏み殺されたのも事実だ。それ程迄にロシヤの勞働者と云ふ者は食糧不足に惱まされ續けて来た事が判る。腹一杯になる事なしに仕事々々とで追われて来てゐたのである。であるから捕虜にパンを売ってくれと參百五十瓦のパンを十円か十五円で買ってゐた。
それが、一九四八年の一月に自由販売になった時のパンに飛びつき方は押して知るべし。此の時はボロボロの作業服で二瓩四百の黒パンを脇に抱えて町を行き来してゐた。工場等で腹一杯食って食って残し、食へずに我々に呉れる者も出来てきた。それまでには全然それが出来なかったのである。

ロシヤには乞食は一人もゐないと自慢してゐた。確かに日本などに比べると居ない様にあった。然し全然居ない事はない。
みんな徴用みたいに各工場に割り當てられて働いてゐる。スターリン憲法では働く權利があって各人は職がない場合は、ある機関に申し込めば其處では申込人に対して職を與えてやらねばならぬ義務があるのだ。職種も本人の自由だ。
然し我々の付き合ったロシヤ人は、「俺はどうもこの工場は厭だ。何處々々の工場に代えて呉れて頼んでいるが何時迄もやって呉れない。」と文句云ってゐた。端末の勞働者に至るとこうである。

特殊技能を有する勞働者は非常にいゝ待遇を受ける。仕事は總てノルマ制で仕事量に依ってパーセントが決定され其のパーセントに依って賃金も支払われる。仕事によって一日の百パーセントの単價が違ふが、同一仕事の場合は経験年数や腕の如何に依って級が決められてゐて、其の級に依って同じパーセントでも単價が違るのである。
其の制度が我々捕虜にもそっくり其のまま適用された。それでロシヤの云ふ平等は我々の考えてゐた共産党は皆平等だ、みんな上も下もなく何でも同じだと云ふのでなくして、十働く能力のある者には十働いただけの賃金を渡されるし三しか働けない者には三だけしか賃金は支払はない。其の働き量に相応する報酬を得られると云ふ意味の平等で、スターリン憲法の法律は如何なる共和国の人民でも皆平等にソ聯邦人としての取扱ひを受け平等の權利義務を有すると云ふのである。
飛行機工場に居た若いロシヤ人は、俺はもう仕事したくない、無断で休めば處罰されるから怪我させて呉れ、怪我すれば無条件で休まれると云ふので、拇指の上に「おの」をのせて、之をハンマーで叩いて呉れ、と我々に云ふのだ。そんなことが出来るかいと断って誰もやらなかったら、翌日は拇指に包帯を巻いて痛そうな顔をして出て来た。変な奴も居れば居るもの。
又、代用煉瓦工場に働いてゐた年寄の勞働者は革命前の生活を知ってゐたのか、他のロシヤ人が一人も居なくなるとキョロキョロあたりを見廻し乍ら、スターリンは駄目だ、飯は少ししか食はせんで仕事ばかり多くやらせる、ニコライは日曜日には必ず教會に祈りに行かせたからよかったなあと云っていた。我々が、日本ではお前位の年寄は家に居て孫の子守りしてゐる位が関の山だ、と云ふと羨ましがる様な顔をしたっけ。

又女性勞働者とも煉瓦工場やオスム11と云ふ工場に行ってゐた時に話したが、彼女達は日本の若い女性の様に白粉塗ることなど知らない様だ。そして実に体格もよく足も太くて、痩せて了まった我々の足より余程太くて力が強かった。足も腰も胸も実に發達してゐて体格においては実に頼母しい限りだ。日本の女は家に居て食事の事や子供の事などで働くからお前達みたいにこんな仕事はする者が居ないと話すと之又羨ましがってゐる女が多かった。
男女同權に於いては仕事の上に於いても又然り。木工場に働いてゐた時は女と一緒に働いたが、其處に居たユーリカと云ふ自分より一つか二つ上の女は実に気の強い女だった。材木の大きいのを足の上に落として指一本つぶして血だらけになってゐるのに涙一つ流さずシャーシャーとしてゐた。
此處の木工場には徴用で働いてゐる若い十七、八の娘が七、八人位居たので自分の班員がみんな仕事の余暇にいろいろからかふことからかふことをして、又彼女達はロシヤ人と相対するように我々にも応対するのだ。此處の木工場で力持ち揃ひの自分の作業班が一躍優良作業班の名を貰ひ百參十パーセント以上を完遂してゐたのである。


カーペーペのセメント會社に居た時は大分監督の手先になり闇の手伝ひをしてやった事か。又オスム11で自動車作業の時は砂運搬で定量よりもウンと働いて後一台だけ闇流ししたり、或いは早く定量をやり上げて闇仕事をやったり、闇々闇である。配給ではやはり不足なのか一寸気の利いた奴は殆んど闇を行ってゐるのだ。

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ロシア革命から30年も経っていても、大戦直後という時代のせいかどうか分りませんが、ソ連人民はまるで、ソ連の支配階級から搾取されているような、不思議な感じがします。
抑留からの帰還者が、帰国後、思想教育の状況などについて、警察からの聴取を受けたという話があります(父もそんな話をしていたような気もします)が、このような現地での体験をしていれば、どんな教育を受けていようと、共産主義者になって帰国した人はいなかったのではないかと思います。

2014年11月1日土曜日

13.映画 14.葬式 15.白系ロシヤ人

13.映画

入ソ當時、ポゼットの収容所で隣りの病院で、夜外で映画をやってゐた。日本映画でも占領した奴を一つ見せて呉れんかなあーと思ってゐた。然し捕虜の身にはよ過ぎる願ひか。タガノロフ市に着いて以来約一年位は一つも見ることが出来なかった。1948年の初め頃より収容所にも一月四回は映画が実施されることになった。之は月給より差し引いて映画をやって貰ふのだ。我々の教育に用ひられた。
革命映画、ロシヤの集團農場の映画、復員軍人の映画等々、凡そ大部分は興味を覺えない、つまらないものだ。まして日本文字が画面に出ないのだから、さっぱりニェポニヤーイだ。
今考へれば「恋の魔術師」も一度やって呉れたのだった。闘犬の映画や革命映画等は言葉が判らぬ割に面白かった。映画で感じたことは、実に規模が大きいことだ。領土が広いだけにロシヤ映画もスケェールが大きかった。
  

14.葬式

タガノロフ市に於いて自動車作業中に街の中でロシヤ人の葬列に五、六ぺん遇った。
子供、大人、年老等家族の貧富の状況にもよるだらうが、一番多いのは馬車だ。寝棺を奇麗に草花やリボンで飾り蓋を開いて死顔を奇麗に化粧させて、外から見れるようにして馬車に乗せ、其の直ぐ後に家族の人たちと僧侶が泣き乍ら連いてゆき、其の後に知人等が涙流しつつ寺院に向かって街を歩いてゆくのである。街の中を泣き乍ら歩くのは朝鮮に似ている。良い家庭はトラックを使用して音楽入りで徐行しているのにも出逢った。

15.白系ロシヤ人

 白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐたが、ロシヤの中ではどんな生活をしてゐるだろうか、疑問だった。
タガノロフ市においては飛行機工場内に俘虜収容所みたいに鉄條網を張って宿舎が有り、兵隊の監視が見張ってゐた。抑留生活だ。食事の方は我々よりよかったらしい。其の中でいい年をした品のあるロシヤ人達が柵内をあっちに歩きこっちに歩き散歩してゐた。未だ共産主義に共鳴しないからだとか。同じロシヤ人であり乍ら、捕虜みたいに籠の鳥にされてゐる。実に可哀そうに感じた。
此所の収容所にゐる連中は相當の学識もあり、頭もよいので、飛行機の製図工場で使用されてゐる。試作機の設計製作を擔当してゐたのだ。奴さん達の働いてゐた工場は、入り口に之又ロスケの兵隊がゐて證明書を持ってゐる者しか絶対には入れなかった。
我々は此處の床の仕事の為に一度入って製図机の間を通ったことがあるが、此處で働いているロシヤ人は、一般に学識者らしいのが多い。若い女なども映画に出て来る様な服装したのも大分見受けられた。他の我等の働く工場の女は勞働者の程度の低い奴だから、此處では一さう目立つ譯だらう。

設計製図は本職だから関心持って盗み見しようと思ったが、大して望は達し得なかった。飛行機の実物体の図面を引く大きな図板は始めてみた。兎に角白系ロシヤ人は自分の国内でかゝる抑留生活を余儀なくされてゐるのだ。


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「13.映画」で『恋の魔術師』と出てきますが、『恋は魔術師』の間違いのようです。1947年のベネチア映画祭の脚本賞受賞作品。日本では、ちょうど父が帰国した1948年の夏頃公開されたようです。
http://eiga.com/movie/67520/

ニェポニヤーイ」は意味が分かりません。どなたかわかる方がいらっしゃったら教えてください。

陸上戦はなかったもののの日露戦争での敵同士なので、「白系ロシヤ人は元来日本人には好感を持ってゐると聞いてゐた」ということ自体、ちょっと意外ですが、ソ連の敵はロシアの味方、ということだったのでしょうか。日本人への好感は、最後の方でも出てきますので、間違いないのだと思います。

父は、工業学校の機械科を出ていたので、飛行機工場の中や製図工場ではたぶん興味津々だったのだと思います。

2014年10月24日金曜日

その11 煙草、その12 酒

11.煙草

先にも書いたが、煙草程ゆったりした気分になれるものはなかった。家族全部揃って夕食でもたらふく食ったらゆったりでもしやうが、食事はお粥を少し食ってる身には腹も減り通しで、煙草でも喫はなくちゃやりきれないのだ。ところが、それを買う金がない。
最初はチッソ製の洗濯石鹸と交換したり、萬年筆(ルーチカ)、時計(チャースイ)、バンド、ハンカチ等を出してそれに相當の量の煙草と交換(ドラゴイ)するのだ。自分も時計、萬年筆、財布と殆ど煙になって了った。
それを喫って了ってなくなると、配給になる石鹸を四、五円に売って、マホリカと云ふ奴をコップ一杯買って喫った。そして又それも足らなくなると吸殻拾ひだ。ロスケに煙草を呉れと云えば呉れるには呉れるが、何時も何時もは貰えぬので、拾ふに限る。
然しロシヤでは両切りは余りないのである。ハピロスと云って口付煙草。之は吸口が内地の奴よりウンと長いので、之は殆ど最後迄吸ったって口が熱くならぬので、落ちてゐるのも煙草が少しでも残ってゐるのは稀にしかない。そんな時には東京の電車の停留所等を思ひ出した。日本では勿体ないことをしてゐたもんだと。
パピロスの他にマホリカと云ふ品である。之は煙草を(?)人が乾かして茎も葉も一緒に細かく刻んだだけの代物だ。之が勞働大衆向けの煙草で、大半の人が新聞で手巻きにして唾液で糊付けして喫うのである。我々も最後には巻き方がロスケ並になってゐた。マホリカも非常に美味いのがあって、パピロスよりいゝ様に思ってゐたが、今度内地の煙草を吸ひ出してから一服喫んだけれど喫へぬ程まづかった。


12.酒

収容所内にはアルコール類は持入嚴禁になってゐるので余りにも縁が遠すぎた。
ロスケはメーデー、革命記念日にはレーニンやスターリンの像を街に掲げ、酒(ウォッカ)をのんで唄ったり躍ったりしてゐた様だ。この様な特別な日には酔っぱらひも見られるが、普通の日には日本程みられない。元来酒には強い関係もあるだらう。又、或る方面から云へば何時も酒なんか飲んで酔っ払う余祐がないのだらう。
ウォッカなるものは相當強い酒と聞いてゐたが、タガノロフで飲んだのは日本の焼酎位だったと思ってゐる。自動車の仕事をしてゐる時、運チャンとともに闇をやったので我々にもビールを一杯飲まして呉れた。一杯六円五十銭だ。余りにがみもない、我々が上海の兵舎で飲んでた様な小便ビールだ。然し其の時は一、二年も禁酒してゐた時の事とて、実に内地を思い出した。ニュートウキョウ、銀座ミュンヘンで、そら豆のさかなでボーナスをはたいた事など。

たった半立(リットル)のビールだったけど、直ぐに砂を貨車に積んでガタガタ揺られたので非常によくきけて、収容所に歸り着くまでポーッとした一杯機嫌だった。


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口つき煙草といえば、昔、夏目漱石の「吾輩は猫である」が映画化され、その映画の中で、漱石愛用のタバコといわれていた口つき煙草の「朝日」が登場します。(「口」のところをペッタンとつぶしたたくさんの吸い殻が火鉢の灰の中に突き刺してあるシーンが印象的でした。)当時学生だった私は友人は、映画に影響され、まだ販売されていた「朝日」をしばらく愛用していました。
http://blog.livedoor.jp/naturococo/archives/1602668.html

父がボーナスをはたいたという銀座ミュンヘン(銀座8丁目)はもうありませんが、ニュートーキョーはビアホールとして今も有楽町にあります。(今度行ってみます。)

2014年10月19日日曜日

その10 月給

10.月給

俘虜には煙草銭になる位の月給は支給されると聞いてゐたので、タガノロフ市で、一、二ヶ月も働けば少し位貰へるだろうと思ってゐたら、何時になっても呉れない。千名も働いているのに月給を貰へたのはパーセントの非常にいい仕事場に行って居るものばかりだ。こちとらは指食わえて恨めしそうに眺めるだけだ。そして其の儘の仕事を續けたら生涯一文にも有りつけないだらうと思ふと仕事するのも厭になって了った。

入ソ後一年にもなるのに一銭も貰へない者、毎月々々貰っている物、千名中半分半分よりまだ一寸ひどかった。民主運動が盛んになるにつれて皆の声が此の様な状態ではいけない。余りにも不公平だ。
同じ仕事をやって片方が成績悪くて月給貰えぬと云ふのなら諦めもするが、奇麗な余り体力を要しない作業が楽をして月給を貰い、土方とか重勞働の方がえらい目に逢ひ乍ら一銭も貰へないと云ふんだから、之は交渉して職場の変更をやって貰わなくちゃ叶わんと云ふことになった。
ロスケはそんなに職場を交代すれば能率が上がらんから駄目ぢゃ、と断られた。それぢゃロスケは日本人の一人々々は顔迄知らんのだから、無断で少しずつ交代させようと云ふことになった。然し之も現場の監督がちゃーんと知ってゐて具合が悪い。

最後には月給を貰った者が出し合わせて、其の幾らかを貰わぬ者に廻してやろうと云ふことになった。貰ふ奴は一人で百五十円も貰ふし、貰はぬ者から言わすりゃ飛んでもない話さ。皆の気持ちが大して多く貰はうとは思ってないが、毎日煙草を十分喫へるだけの金を貰えばハラショーである。それならばその為には幾らか要るか。二、參十円でいゝのである。捕虜の身で、勞役に服してゐる者にとっては、食物は勿論だが煙草が一番の慰安だらう。所持品のロスケが好むような品はみんな煙草に化けて煙になってゆく。色気なんて「願っても到底」と、てんで諦めてゐるから。
それで中隊で二百五十名の中で半分か參分の一の人員が、月給を貰ったら一割ずつか二割か出し合わせて貰わない人に頭別けすることに決議した。これも相當の反対者があったが、お互に日本人ぢゃないか、今迄戦友として同じ釜の飯食って苦楽をして来た者が、君は貰った、俺は貰はんと両方からひがみ合ってゐたんではこれからの苦しい生活はやって行かれんぢゃないか、と云ふことになって丸く話がついた次第。

ロスケは何の為に同じように月給を渡さないかと云ふと、千名の中に何名かに月給を出せば、他の貰はぬ者がよく働くと月給を貰へる、よし、ぢゃ俺も大いに働かう、と言う風になることを願ってゐるのだ。ところが、我々から云わすりゃ、精一杯働いても一銭も貰へん、之より以上働け、なんて云ったって要求通り出来ないんだから仕様がないぢゃないか。前に述べた給與でも全く同然だ。パーセントの良い者には余計食はせるし、悪いところは定量以下に主食を減らすんだから、やり方が辛らつだ。

結局在ソ中に貰った自分の給料は二、三十円づつ五回位だけだ。一九四八年二月は百五十円も貰へる職場に居たので、今度こそはと張切っていたところ、弱体者に廻され月末二、參日休んだので、遂に之又貰ひ損なった。毎日の単價を出場日数で掛ければ、収容所の経費を差引いても結構七十円位は貰えることになってゐたんだが、ロスケの作業主任が一人一月4回の休暇を取って良いが、それ以上休むと病気の場合でも月給は支給しないと言ひ出したからせっかくの夢も破れた譯。毎月々々百五十円位ずつ貰ってゐた者を思へば、在ソ中には余り金には恵まれた方ではなかった。

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先日、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑秋季慰霊祭に参列する機会を得ました。千鳥ヶ淵墓苑には、シベリア抑留中に亡くなられた方の遺骨も納められているとのこと。前回の「負傷」で書かれている亡くなられた方のご遺骨もあろうかと思いながら、あらためてご冥福をお祈りしてきました。

私も、この手記を読むまで、シベリア抑留 = 強制労働というふうに理解していたので、給料というと意外でしたが、果たして、あくまで仕事をさせるためのニンジンだったわけですね。
日本兵は、まとまって、助け合い、防衛策を講じる。恐るべし日本兵!

※昭和22年の大卒初任給が200~300円、23年はさらに上がっているようです。当時のソ連国内の物価水準がわからないので、150円あるいは20、30円というのがどれほどの価値だったのでしょうか。

2014年10月11日土曜日

その9 負傷

9.負傷

俘虜生活中に遭った負傷の中で第一番の惨事は何と云っても興南波止場に於て貨物船に米をグレーンで積載中、ワイヤーが切れて米俵二十五俵が纏った儘戦友五名の頭の上に落下した時の事だ。引込線にある貨車から十名位で米を一表つゝ擔いでグレーンの下に擴げた網に二十五俵積み、それをグレーンで巻上げて船倉に運ぶ作業をやってゐる時だった。

自分が俵を網の中に落として列べてゐる時、ヅシンと地響きがした。ビックリしてふり向くと、たった今グレーンで巻上げたばかりの二十五俵が、ワイヤーが切れて線路の横の頂度貨車の扉の前に落ちてゐる。
側に立ってゐた者も只ボーッと気抜けしたような驚きで眼をみはってゐたら、「誰か下に居るぞ。直ぐ俵をはねろ」と云ふ声にハッとして我に返って、俵をのけると四人か五人下敷きになってゐる。最後の一俵をのける時に、一人の目、鼻、口、耳から血が吹き出し始めた。顔がペシャンコだ。死。駄目だと直感。
他の四人を現場より引き出してみると、橋本兵長は両足ともブランブランで、立つも歩きも出来ない。西村君はかすかな声で、只イタイイタイとうなるだけで、他は血一つ流してゐない。米川君は防寒帽の下から血が流れてゐる。帽子を脱ぐと耳の後を切って居た。

昔の軍隊なら直ぐ救急車どころだが、ロスケの監督下故、直ぐに自動車もよこさず仲々医者の手も廻らない。まどろっこくて仕様がなかった。
一時間位して自動車が来た。即死してゐる島田君。両足ブランブランの橋本君。多分内出血の西村。頭部負傷の米川君と応急の擔架により自動車に積み込み入院させた。後ほど話に依れば島田君は完全に頭部をペシャンコに叩かれ即死。西村君は胸部の内出血で二、參日後死に、橋本君は大腿骨が粉々に折れて了っていたさうで之も又死んでしまった。米川君は俵にはねとばされて貨車の車輪で頭部を打割っただけで血は流れてゐたが助かったさうだ。

以上の様な負傷事故が自分の居た場所より二、參米離れた場所に、ホンの一寸の時間に起きた事件なのだ。尚我々は戦友の生血が流れてゐる現場で後半日を同じ仕事を厭々乍らやらせられたのである。

興南の収容所では馬小屋の仕切りに煉瓦を積み上げてあったが、之にもたれて陽向ボッコしていた兵隊が、馬が暴れた為煉瓦が倒れかかって頭より打ちかぶさり、重傷を負って入院したが翌日死亡した。解剖の結果腸壁に穴があいて出血してゐたそうだ。

タガノロフ市では三十名位の人員が、トラックで作業送り迎への時、貨車の側板が進行中に開いて十名位ひっくり返り、一人だけ後輪に轢かれて死亡。貨車に便乗の場合は側板や後板に大いに気をつけねばならない。絶対に腰掛けることは禁もつだ。

格納庫の煉瓦積中、天井より煉瓦が落ちかかって頭を打割った者が十名位、壁塗り中足場が落ちて負傷した者も大分居る。この中で鈴木と云ふ人は神経衰弱になり遂に首下がりまで敢行した。余談だが、此の時ロスケの若い美しい看護婦が、妻も子供もさぞかし歸国を待ってゐるだろうにと涙流してゐた。マンホールで背丈以上も地下に入って作業中の[]長は頭上より頭位の大石が轉がり落ちて足に當り、防寒靴の上より、小指を切断し、片輪になって了った。

第二中退の兵隊は飛行場で土工作業中、土の中に小銃実砲が埋まってゐた為、之をつるはしで知らずに打降ろしたので、破裂し銃弾が左眼を打ち抜いて、上頭部より飛び出し片目になって了った。助かって不幸中の幸だったが、病院に入院中、うわ言の様に俺は片目になってでも良いから内地に生きて歸りたいと云ってゐたそうだ。全く我々はそんなにまで歸りたかったのだ。
栄養失調で亡くなったのは、一日に十何回も下痢し熱は三八、九度、三日と経たぬ中に目はくぼみ頬は落ちて、その儘眠るがごとく死んで了ふ。

其の他天井から落ちたもの等小さな怪我は一寸数へ切れないほど澤山ある。自分の怪我は煉瓦工場に仕事中、煉瓦が足に落ちかかり拇指の生爪をはがしたり、手の生爪はがしたり、木材運搬中に取落し足の上に落ちて一週間以上もびっこになったり、生命にかかはる如き怪我は余りなかった。

自分が作業班長やってゐる以上、お互い怪我には十分注意してゐたから。鉄道の台車より一寸巾の長さ五、六米のアングルを却下する時は、アングルに跳ねられバラバラに降ろしたばかりのところへ、かへりこけたこともあった。落ちさうになった時、之は駄目だとばかり自分で飛び降りたが、足場が悪かった為仰向けに倒れ背中を少し擦ったくらいで止まって幸いだった。

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さる9月22日頃の新聞で、シベリア抑留中の都道府県別の死亡者数が掲載されていましたが、このデータは旧ソ連の公文書をもとに整理されたものです。
このデータでは、父がいたタガンログ収容所での死亡者は、7名ということになっています。

本文中に出てくる、鈴木という名前が出てきますが、果たしてこの鈴木貞次さんという方かどうかはわかりません。

全体では1割程度が亡くなったといわれていますが、タガンログの収容所が1000人規模だったことからすると、良好な環境だったように思えますが、どうも、これだけではないようです。

この佐藤さんの証言(ページの下の方に出てきます)のように、名簿にはない方々が亡くなっておられるようなので、旧ソ連のもともとの名簿自体が正確ではないものと思われます。

父の手記では、亡くなった方の記述はこの部分だけですが、生前、「現地ではずいぶん亡くなったのか?」と聞くと「半分になって帰ってきた。」と聞いたように思います。何の半分だったのか、ということもわかりません。

また、最初に出てくる「興南」は、ソ連国境に近い北朝鮮の港町と思われますが、そこで亡くなった方たちは入ソ前のことなので、どのように報告されているのでしょうか。

2014年10月5日日曜日

その8 給與

8.給與

[給與」とありますが、給食、食事のことです] 


 ロスケの常食が黒パンである。我々は常食たる米飯にも有りつけなくなった。入ソ當時は米穀少量と高粱、燕麦、ジャガイモ等だった。魚、肉等全然なく又新鮮なる野菜もなし。ポゼットに上陸より一週間にしてポツポツ鳥目患者が出来始めた。自分もその一人だった。
晝間でさへ急に蔭に入ればさっぱりみえない。これも魚や肉類不足でヴィタミンA不足現象。鶏と同じで朝起きて夕方迄自由に動けて夕刻よりさっぱり目盲になって不自由でならない。電燈は見えるがそれより眼をそらすと今まで見て居た電球のゲン影だけが白く浮かび上がり他は何にもみえない。

興南やポゼットでは便所が遠くて夜起きた場合眼がみえず、子供みたいにたれ流しやったものが幾人かあった。又便所の中に足つっ込んだ者も居た。本當に今考えると可笑しい様にしか思へないが、其の時は実に眞剣だったのである。

タガノロフ市到着當時は麦粥を澤山食はして貰った。ところが、みんな列車輸送の二十五日間の疲勞と暑さの為に衰弱して幾らも食べなかった。食い馴れないせいもあったらう。之をみたロスケが量をウンと減らして来た。一日の穀物の量が四〇〇瓦となってゐるさうだが、二〇〇瓦位あったらうか。それに本式に作業に引っ張り出されるようになって益々量が足らなくなって来た。

毎日々々空腹の連續である。大根の生、人參、カボチャ、玉葱、ジャガイモ、野菜の生は云ふに及ばず、アカザ、タンポポ、野生のゴボウ等生の儘か塩つけてかぢった。大根は甜菜だから甘い。人參は柿の様な気がするし、カボチャも同じ。馬鈴薯は梨の様な気がして食った。魚も炊事から貰ふのは生で骨までバラバラにして猫も見向きもしない程奇麗に食ったのだった。

この様な場合は年のことも身分のことも色気も全然無くなって了ひ、只ひたすらに食いさえすればいいのだ。腹を壊すことなんぞ考へる暇はない。無茶苦茶食っている奴に栄養失調で死んで了ふぞと云はうものなら、之だけ食って死ぬのなら本望だと云ふだらう。
之だけ徹底してゐたからか、自分も相當生のまゝ食ったが、めったに腹だけはこわさなかった。蛇なんかは作業中に監督の眼を逃れて奇麗に皮をはぎ、針金に蚊取線香の様に巻いて、突刺し歸ってから入浴場の釜で良く焼いて食ってゐた。唐もろこしの若い柔らかい奴は一日に最高で三、四〇本は食ったらうか。それでも腹は自身たっぷりだった。


昔から「武士は食はねど高楊子」と云ふ文句があったが、こんな諺なんかてんで信じられなくなって、腹が減っては戦が出来ぬ、というのが本當の様な気がした。(然し、終戦前の上海飛行場での空襲時は気が張って空腹も感じなかったが。)兎に角我々は「人間が窮して来れば如何なる粗食にも如何なる小食にも耐え得られ、その上に精神力が充実すれば相當の期間之に抗抵出来得る」自信を持ったのだ。之は確かな収穫かも知れない。


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父は、生前、抑留中は「とにかく飢えていた。食えるものは何でも食った」、という話をよくしていました。なので、帰国し実家に戻り、「砂糖をバケツ一杯なめた」とか。
貧しい食事のおかげで、栄養失調となり、命を落とした人もいたのではないかと思われます。

また、最近ではすっかり死語となっていますが、「鳥目」というのも私たちが子供のころまでは、「偏食してると鳥目になる」とよく脅かされていました。便所に足を突っ込むくらいならいいですが、環境によっては、命にかかわりますね。

2014年9月28日日曜日

その7 衛星、清潔

7.衛生、清潔

診断に就いては前述の通りだが、一般衛生には非常に嚴重であった様だ。第一に虱だ。發疹チブスには本當に弱いロスキーが此れを恐ろしがるのは無理もないが、虱検査だけは朝鮮以来何處にもつきもの。虱が居やうものなら大事。大隊全員滅菌をやらされる。一週間に一度位必ず実施されるが、之ばかりは幾らやっても中に一人二人不精な者が居るから、全然居なくなったと云ふためしがない。
此の虱の為二十參年十二月に戦友參人が發疹チブスにやられた。之が真性と判明するや、収容所は上を下への大騒動。藁ブトン、毛布、枕、寝台、外套、其の他被服全部、それに兵舎も總て蒸気消毒が実施された。勿論作業は全然中止。ソ聯人とは嚴重に隔離されて了った。収容所長、ソ聯女医、看護婦、みんな夜も寝ないで我々の滅菌の状況を見廻ってゐた。二、三日は我々も満足に寝れない。然し、みんな作業が休めるんで余程良かった。
入浴に入って裸体になってゐる間に着物全部を熱気室の中で消毒やる。滅菌所の勤務は第三、第四グループがやってゐたが、こう毎日やられたら、こっちが伸びて了ふと心配していた。入浴滅菌の日課が約十二日間續いた。

人間て贅澤なもんで虱の御蔭で十二日も休ませてくれたのに、こう毎日、滅菌が續けられたんでは叶わん。之ぢゃ体がえらくっても作業に出た方が余程良いと云ふ様になってきた。虱にはロスキーからもやいやい言われたが、我々自身も夜、床の中でモズモズされて困ったし作業の行き歸りにも又然り。之は神経を苛立たせ、それに作業の疲勞回復のための大事な睡眠を妨害するのである。
作業なしで十二日間も遊ばせて貰ひ、滅菌もゆきとどいて虱も少なくなったので、皆大分肥えて来た様であった。此の期間中の体重測定では七一瓩になってゐた。
虱のことでいやなことは腋毛と陰毛の剃り落しだった。場所によってはソ聯の若い看護婦が実施したところがあったさうだが、我々は自分で戦友にやって貰った。
真夏にやった時なんか、汗が出て重勞働やる我々には痛いこと痛いこと。捕虜なるが故だと諦めるより仕方なかった。ロスケに云わすりゃ、毛があるから余計虱がたかると云ふのだ。在ソ中には全部で四回くらいやられた。

虱の次が南京虫だった。タガノロフ市到着當時は新しい宿舎だったので、全然居なかったのが、ドイツ人の収容所より運んだ寝台に棲息していた為、一冬過ぎる時には物凄い繁殖振りだった。ウトウト深い眠りに入ろうとするとチクチクッと食らひつく。一匹や二匹なら大したこともないが、一ぺんに十何匹と云ふ程毛布の間に侵入して来て全く眠られない。飛び起きてつぶさうとすると、くもの子を散らすように逃げ込んで了ふ。油虫臭い特有の臭ひを發する。虱の食ひ方よりも一段と痛い。之によって化膿したものが大分居た様だ。
之に対しては月に一回位蒸汽で以って寝台の裏なんかを消毒やったが、絶対に減少しなかった。飛行機の防風ガラス等で自分の寝台を焼いて防いだが、直ぐ又隣の寝台から越境して来るから同じだった。蚤には割に惱まされなかった。
年中を通じてやかましかったのは、舎内外の清掃なり。これは日本の軍隊よりも尚嚴しかった。考へ方によるが、捕虜が千何百も狭い収容所に入れられてゐるのだから、黙って居ればどんなにか不潔になるであらう。それをロスケが考えてか、実にやかましく掃除をうるさく云ふ。床板なんぞは針金のブラシで白くなるまで磨かせるのである。二年間もこすったので歸る時は大分摺り減ってゐた様だ。庭の手入等吸殻一つ落ちてゐたんでは収容所の衛生清潔は零になる。ロスケの幹部の着眼は便所だ。此處がピシャリ掃除できて居りさへすれば気嫌がいゝ。

便所と云へば、収容所の便所を説明しよう。水の流れる様になった深い溝が二本、便所の棟に沿ふて縦に通り、其の外側に足をのせるところの踏み台がコンクリート製で出来てゐる。其處にしゃがんで前記の溝に糞を垂れると、水で流すことになる。それが一人一人の分に仕切りをしてある譯でもなく、糞垂れ姿は後からも前からも丸見えだ。

足をのせる台にしゃがんで糞垂れるのが満員になると、如何にも電線に止まっている様にみえて、前に長い者が各々ブラ下がっているから面白い。今、こちらであんな事したら恥ずかしがって誰もあんな便所には入るまい。此の便所にも後では馴れて了ってなんとも感じなくなった。未だ素裸体で女医さんに尻の肉付きを見て貰ふのが恥ずかしい位だ

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蚤は、犬、猫にもいるのでまだなじみがありますが、シラミや、ましてや南京虫に至っては、私たちの世代でもなかなかお目にかかりません。
しかし、下の毛まで剃られるとは・・・。欧米の方には剃毛している人が多いという話を聞きますが、果たして虱対策なんでしょうか。


2014年9月20日土曜日

その6 休養について

6.休養に就いて

タガノロフ市に着いて直後は、一ヶ月の中に一回休めたらいい方。日曜日にまで殆ど作業に引っ張り出された。起床後食事して、作業出發迄のニ、三十分は、みんなグーグー眠って出發の合図も判らぬ位に疲勞の蓄積だった。
四時半乃至五時に起床、六時過ぎ前に千名近くの人員が食事を終わり、七時に作業出發、八時に作業開始。晝の一時間休みを除いて八時間勞働で五時に終了。六時頃より夕食。食後は自由だが、被服の手入等で毎晩寝るのは十時だ。それで居て飯は足らぬのだから何のゆっくり休む暇があらう。一ヶ月を休みなしに作業すると疲勞の度は大したもんだ。

一日だけ、漸く與えられた休日には、朝から兵舎や庭の掃除々々で約半日は取られる。冬の一番寒い時期等はいっそ凍傷にでもなって休んだほうがましかも知れんと何度思ったことか。作業による過勞、食料不足等の関係で体力は日一日と衰弱して行くのが眼に見える様だ。
終戦直後ロスケと喧嘩したり作業を怠ったりしてみつかったものは懲罰部隊という編成に入れられ、八時間勞働も一番重勞働をやらされて、其の上歸営後更に四時間の強制勞働に服せられるのだ。

二十二年の半(ば)頃から、収容所長が交代になりアリルエフ少佐が来任されてより、大分我々の意見を尊重して呉れ、一ヶ月内の休暇も四回と決定し各人は大体一月に4回は休める様になった。懲罰部隊も廃止となり皆の気持ちが明るくなって余裕が見えてきた。
サナトリウムと云ふ休息室が完成されて、自分は之に第一回目に休息した。この制度は、作業成績の非常に優秀なるものを、十日間だけ作業やらせず、食事も一倍半位食べさして、休まして呉れるのだ。自分は優良作業班の班長としてこの權利を得た譯。十日間の間に參瓩体重が殖えた。

それから作業は体力階級によって割り當てられる。此の階級とは第一、第二、第三、第四とあって、第一グループとは如何なる重勞働にも耐へ得られる者、第二グループは普通の勞働に堪へられる者、第參グループとは軽勞働にしか堪へられない者、第四はオーカーといって弱体者だ。第一、第二グループは八時間勞働、第三グループは四時間勞働だ。第四は勞働はなし。然して此れは収容所に残って軽い使役をやらせられる位が関の山だ。然して此この階級はソ聯の女医と日本の軍医が身体検査(月例)に於いて決定する。

診断に就いては収容所全員千三百五十名の中に病気で作業を休み得る者は大体四十名位とみていゝ。手や足の負傷で、どうしても出場されないもの、風にて熱のある者、下痢患者が大多数である。このやうな患者が四十名も越える様になって来ると、一日に十回位下痢しても、熱が三十七度五分位になっても、ビッコ引く位の負傷でも、作業に引っ張り出されることになる。でないと、余計に患者を出したと云ふので収容所の女医がスターリンから叱られるさうだ。

患者の少ない時ならば直ぐ休ませるのが右の様な時は歩けない様な者まで作業やらせられるから益々悪化する。どうにもならなくなると作業休を呉れるが、其の代わりに休んで居た患者の満足に直って居ない者が早速出されると云った具合。兎に角、作業休に就いてだけは実にひどいやり方だった。


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先日、やはりお父様が抑留されていたという方とお話をする機会がありましたが、収容所の所長や、医師によっては、被抑留者の労働のさせ方にもずいぶん違いがあり、生還率にも大きな差があったという話をお聞きしました。
その方のお父上がいた収容所は99%の方が生還されたとか。(全体の生還率は9割、70万人抑留されて、1割が収容先で亡くなったといわれています。)

2014年9月13日土曜日

その5 作業について

5.作業に就いて

 我々の部隊のやった作業は、大体ロシヤとドイツとの戦争で破壊された工場及び建物の復興が主だった。従って一つ一つの仕事も煉瓦積の破壊やら煉瓦についてゐるモルタル落し、煉瓦積工、セメント練、大工、だった。其の他機械工場の掃除やら鋳物工場のグラインダー作業、旋盤作業、重量物運搬作業、自動車積降し作業、線路工夫、壁塗りもあった。

自分でやったのは、セメント會社に約半年。此處には砂、セメント、石灰、炭殻が材料で、一部はミキサーを使ってセメントを練って、これを他工場の煉瓦積やってゐるところへ運び込むんだ。之が、一日やらねばならぬ仕事量が大きな事には我々は相當鍛われた。
どれだけやってもやっても、パーセントは百パーセント以下。給與、糧秣はおかげで減らされるし、ますます作業が悪くなるばかり。冬になると水か氷ってミキサー(セメント練り機械)は運轉不能になるから4人ばかりで円匙でセメント、砂、又は石を練り合わせねばならぬ。食事がウンと不足勝ちで足のフンばりもなくなって来る。ロスケはお前等が作業成績が悪いから給與を悪くするんだ、成績を上げてみろ、何ぼでも食わしてやるからと云ふ。それで我々は良心的に一生懸命にやっていたんだが、あとでは馬鹿らしくて真面目に仕事しなかった。

平均五、六名一組で作業班が編成される。その班が班長以下同一仕事に従事して仕事量のパーセントを貰ひ、それに依って食事の方も増減する仕組みになっている。そんな譯で易い仕事の方はパーセントもよく向上するので飯もよく食へるし月給も貰へるが、仕事に依ってはどれだけ努力しようとパーセントは向上せずその為飯の量も少なく月給も貰へない。その為仕事は益々低下し、本人は日一日と痩せ衰えて行く。
自分の班もパーセントの悪いセメント會社に行ったので、仕事は多くやらされた上食事は少ないので班員がだんだん弱体者になって了った。この食事の量で人間をこき使ってるようなもんだ。人間はいやしいから無理やり働かねばならぬのだ。日本でも捕虜は使ってゐたが作業を主食の増減に依ってつり出していた事はないだらう。

自分が八名の作業班長として一九四六年の十二月よりカーペーぺのセメント練りを始めた。それ迄は、同所で斉藤[]長が作業班長だった。班長は班員を指揮統率して、ロスケより受けた作業を完遂する任務を有する。それに作業前には班長の名前で器材を借用して、作業中には紛失に注意し作業終了后は、朝借りた員数をロスケに返納せねばならぬ。
如何にしたら作業能率を向上させるか、創意工夫して班員を適材適所に配置せねばならぬのだ。そしてその上班員を引きずって行くだけの仕事を率先垂範、実行せねばならない。故に筋肉勞働だけでなく精神的にも疲勞する譯だ。十二月に班長になって以来幸に%も百%より下らず一月末頃まで頑張り通した。

二月の初よりタガノロフ市から一つ離れた駅の除雪作業に轉用された。この年は何十年振りの大雪とてよく雪が降り續いて、駅構内も積雪の為運轉不能になりかけたのだ。毎日この駅へ參百名近くの人員が雪除作業に使はれた次第。
二月だから毎日気温が零下二〇度位に下がる。冷たい朝八時よりタガノロフ市の駅まで雪道を歩いて行き、此處から汽車に乗ってマルツワの駅に行くのだ。歩く間はよいが駅に付いてから列車が来る迄二時間も參時間もかかる事がある。其の間火の気の一つもない貨車のプラットホームで待機せねばならぬ。どんな乾燥した短靴をはいてゐても雪の上を歩いて来るだけで相當湿りけを持つ。足の痛いこと痛いこと。冷たいのを通り越した痛さだ。
駅でニ、參時間寒い目にあって漸く汽車にのると十分位でマルツワ駅に着くが、此處に来ると高台になってゐるので、街の方より、參度は気温が低い。器材を受領すると仕事を教わって直ちにかかる。仕事してゐる間が寒くなくて極楽だ。保温の為の勞働だ。
參時半頃作業終了すると晝飯になる。パン二百五十瓦にスープ椀一杯だ。寒いとき食堂で食べるのだから暖かいが參百人が狭い食堂で食べるんだから食うか食わぬ中に外に出される。
全員食事を終わると汽車に乗って歸るのだが、その汽車が四時に来なければならぬのが六時迄七時迄も来ないことが普通だった。その間朝と同じく寒い目に逢って待って居なければならぬ。
雪除作業は作業そのものよりも汽車を待ったりする時間が永くて、火の気もない線路界隈で一時間も二時間も零下二〇度位の冷たさと戦わねばならぬから仕事よりも余程えらかった。靴が終戦時に履いたままの品だから悪くなって満足な奴はないのだ。一寸雪の上を歩くと靴下がじゅっくり湿りけを持って来る。
凍傷の経験のない者等大分凍傷にやられた。一寸そっとの凍傷や怪我ではやっぱり作業に引張り出されるんで可哀いさうだ。腹をこはしてゐても無理矢理引張り出されて冷たさに逢ふので、いつまでも腹の病気は治らず、益々ひどくなって栄養失調になって了ふのだ。
ハイラルの冬期演習が寒いと云って居たが、其の時は精神的に條件が違ふし、栄養方面より云っても又然り。それでも朝から兵舎を出て夕方まで全然火に當らず外にばかりゐる事はなかったから瞬間的に寒かったかも知れないが、今度ほど寒さは耐えなかったのだ。然るに捕虜生活に於ては前期の條件につけて加えて被服不完全ときてゐるから尚更甚しく寒く身に感じた譯である。

マルツワ駅の構内作業中の面白かった事は、線路と線路の間の氷を十字鍬や鉄棒の尖った奴で砕いて居る時、直ぐ横の箱貨車から子供が盛んにかっぱらってゐる。時々銃を持って監視員が廻って来ると、いつの間にか居なくなる。ハテナ何だらうと仕事し乍ら注意してゐると又子供が取りに来た。どうも食物らしい。貨車の壁をはづして、手突っ込んで取り出してゐる子供が逃げて行った。
自分の班の○○君、あたりを監視し乍ら件の穴のところに近寄り一つ大きいのを取り出して持って来た。大豆粕のような未だ目の細かい黒味が買ったレコード位の丸い板だ。みんなで食べものなら食ってみろと、少しづつ食ってみると香ばしくてうまい。実に噛みでがある。落着いてよく見ると日廻りの実の絞り粕だ。
一つ食って味食ひ出したので、それぢゃと又○○君や□□君とレコード位の丸いやつを十枚位運び出した。仕事の最中なので、その品物の分散秘匿に苦心する。ロスケに見つかったら最後、刑法に引っかかるかも知れんのだ。仕事し乍ら細かく割ったやつを一日中噛ぢってゐた。歸りには腹の中にかくすやら防寒帽に入れるやら大事(おおごと)して収容所にもって歸った。
あとで判ったがひまはりの種圧搾で丸い奴一枚は四、五十円する相だ。他の戦友に少しずつ分配したが、大体食糧不足の折とてみんなうまいうまいと云って食った。自分等は飯食ふ時以外は暇さへあれば之を食ってばかり居たので、此の色と同じ色の糞が出るようになり、後で下痢して了った。

雪除作業も參月になって雪がとけ始めるころ出田作業班はオスム11と云うところの製材工場にやられた。此處の貨車引込線に満載した貨車が入って来るとそれを八名で片側に却下する。直径參、四十糎の松丸太が主だ。長さは二間乃至參間ある。一回に十台近くも入って来ると降ろした奴を今度整理するのに大変だ。引込線より四十米位離れて之に平行してトロッコが敷いてある。此處で松丸太を積んで製材工場へ押し込むのだ。トロッコ積込の準備の為にトロッコの線路の傍ら迄貨車より降ろした材木を轉がして積む易い様に枕木を置いて奇麗に積み上げて置かねばならぬ。
自分の班は、雨谷、山根、山本、赤澤と強力ばかり揃ってゐる。其の他小海、川西、三本と之亦力も強いが頭のいい者ばかりだった。都合八名だ。朝、監督が、これだけやったら何時にでも終わり次第に歸ってもよいと断言したので、全力を振って午後一時にやり上げた。監督も之には全く驚いて、歸すとは云ふたものの勞働八時間で四時になってから歸さないと収容所から叱られると云うで、木工場で四時まで遊ばして呉れた。
我々も約束は実行して呉れなかったが、別に仕事には使はれなかったので、此處の監督ならば、一寸頑張ってやらうと云う気が起こった。ナァニ大抵の監督ならばやれと云っただけの量の仕事を終ると欲が出て余分にやらせようとするのだ。そこでわが作業班はよく働く作業班だと監督も感心しただろうし、我々も亦この監督はええ監督だと(いう)感じになった。之から優良作業班の中に出田班が乗る様になったのだ。
參月に入ったものの時々雪に降られて材木に積もって居るのを払ひのけ乍ら重い奴をローム(脚注:ロームとは「カナテコ」のこと)でヤッサコラサで汗びっしょりで動かした。
監督はすっかり信用して了って、どんなに休憩してる時に来ようとも、ダバイ一言云はないで反対にパピロス(脚注:パピロスは口付タバコ)一本呉れて行く。こんなに煙草呉れるなら遊んでばかり居たんでは気の毒だと余分な仕事迄やり上げてしまう様な調子。
之が之迄に我々が使われた監督の場合だったら、休憩でもして居やうものなら、ダバイダバイと尻を追い立てる。煙草は呉れと云っても無いと云って呉れない。だからどうせロシヤの為にしかならんのだ。余りやるなといった具合で誰も居なくなったら休んでばかり、仕事は少しも能率上がらない。
特に捕虜なんか気の抜けた人形みたいなもんだ。それで居て自分の口が肥えるとなりゃ欲が出て働く。其處を狙って使へば何處の国の捕虜だってよく働くだらう。只働け働け、働かんと飯食わせんぞ、ではいい働きは出来んのである。それは、我々の経験からして断言できる。木工場の現監督は作業班長としての意見は実によく聞いて呉れた。こんな人が本當に民主的な人だらう。

材木整理が済んだころ、次の引込線の線路工夫をやらされた。子供の頃線路で工夫が大きなつるはしを大きく振り上げてのんびり打ち降ろしてゐるのをよく見て居たが、自分で枕木を入れて砂利石を入れて泥や砂を入れ搗き固めてみると何があんなにゆっくりやっているのかがよく判った。一日に二人一組で五本位入れ換へて居た様だ。
二十二年の參月末には木工場から飛行機工場の製材工場に廻されたが、木工場の監督が俺のところは出田班でなくてはいかん、と収容所に申し込んで、又木工場に引き戻して呉れた。

5月か6月になってどうしても其處を止めなければならぬ事になり、煉瓦工場の釜出しに廻された。之は未だ焼き立ての暑い釜の中に入り、素手では一寸握れない煉瓦を手袋で運び出し、自動車に積み込む仕事だ。暑い手の焼けるようなのを二つづつ手送りして一輪車に積み、鉄板のレールの上を押して表の自動車の下迄運び、それを自動車に積む。八名で一日一萬枚位煉瓦を積み込んで百參十%を貰ふ譯だ。
釜は未だ石炭殻が一杯で、煉瓦の赤い粉と灰でもの凄いゴミホコリが充満。それに温度が高いので、汗に流れて汚れること汚れること。此處の中に日光でも差し込もうものなら、凄いホコリで防毒面でもつけなくては入る気しない位の非衛生ブリだ。此の悪い作業を二ヶ月も毎日々々やらされて最後には熱發する様になった。炭殻から發生する瓦斯に相當やられて頭が痛むのが屢々だった。熱發して診断受ける度に、作業場が悪いから交代さしてくれ、とロスケにも交渉したが、なかなか止めさして呉れなかった。

煉瓦工場も満ニヶ月位やらされて漸くのこと開放された。此の作業場に於いても我が班が断然光って居た。他の作業班が来ても我々の半分位しか出せないのだ。此處の監督が交代しちゃいかんと盛んに引き止めていた譯だ。二十分も自動車一台にかかるところ十分位で軽く出して積んで了ふんだ。
此の次にやったのが自動車に石炭、砂、鉄材、木材等の積載却下作業。之は一台に二、參、名づゝ分乗。街へ出られるのでいろいろの役得もあり、非常に面白く一日が短い作業だった。面白いところはあとで記す。

二十參年になって、始めて月給を百五十円も貰えるところのアンドレーバー工場(製鉄)に通うことになった。二年間も働いて合計二百円しか月給というやつは手にして居なかった。
此處の仕事は重勞働で線路、枕木交換、ナマコ整理、運搬、鋳物工場、溶鉱炉に入れる古地金の整理等いろいろあった。冬の一番寒い時なんで鉄いぢりの冷たいこと。まあ月給楽しみに頑張っているから續くんだが、之がなかった(ら)到底かなはんだらう。
此の工場には參百人位の同僚が働いて居たんだが、五、六十名の班長やらされて、人員の区署、仕事の割當等やらされて心身ともに相當くたびれた。月末になって熱にやられて遂に三日休み。おまけに二十八日付けで弱体者の組に入れられてあとを續けなかったので夢見て居た百五十円の俸給もオヂャンになって了った。
弱体者で三月四月と丸々二ヶ月仕事もなしで遊ばして呉れたので漸く五月になって再起。第二グループと軽勞働に服することになり、旋盤工場の掃除をやらせられた。
以上で自分のやったラボータは終わり、其の他は煉瓦工、之は一日千枚位積んで始めて一人前だ。

最初は之に従事したものは五百枚位しか積めず、相當パーセントで苦しめられて居た。それに鋳物製品のグラインダー仕上げ作業、電気溶接、大工、壁塗り、電気工等あらゆる仕事があった。土方の穴掘りが一日の仕事量が參立方米の大きさの穴を掘って漸く百%だ。それが穴掘りの仕事にしてもロスケの頭は固く融通が利かぬから、どんなに固い地面でも畠の様な柔らかい地面でも、やっぱり同じ仕事量を完遂せねばならない。煉瓦について居るセメントを落として又使用されるようにする作業が一人一日積み上げて一立方米で百パーセントだった。


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人の使い方、組織の動かし方、勉強になります。当時の月給150円が、どの程度の価値があったのかわかりませんが、月給があったことはちょっと意外な気もします。ただ、正当な対価ではなかったのはわかります。

2014年9月6日土曜日

その4 ロシア語

4.ロシヤ語

在鮮当時より幾らか勉強してゐたのたが、なかなか上手にならない。列車中のドーナット、ピーナットの点呼やら、ダバァイダバァイ等チンプンカンプン判らなかったが、いざ工場に出る様になるとロスケと接觸する関係上どうしても覺えざるを得なくなってきた。
それ迄はノートに日本語で書いてこれを讀んではロシヤ語では何と云ふ、と覚えてゐたのだが、仕事場ではいろいろな言葉を聞いては、あれは何の事だらうと云った具合で覚えるんだから、割に早い発音も近い発音ができる。数字が一から十迄覚えるのに苦労した。現在では数字だけは千以下だったら自由に云へる様になったが、列車中でドーナツとかピーナツとか聞こへていたのも無理ないと思った。朝晩の挨拶、食物の名前とかを一番先に覚える。その次に聞くのが「今何時ですか」と云ふ事だ。此の問に対しての返事を判る様になる迄約一年位要した。時間は食物の次に、作業時間に関係あるから必要なのだ。
工場等の休憩時間を利用してロスケと話すんだが、最初は手まね足まね、まるで唖と同じだ。指さしてみて、ポロスキーでは、と聞き、それによって覚へる。ロスケの方も日本人が珍しいから、お早う、とか、サヨナラ、と日常会話の単語を聞いて面白がってゐる。
言葉のことで面白かった事は、馬車を操ってゐた○○君が、所長の自宅に用事で行って、奥さんより、明日は畠を耕しに行くから馬車に馬糧を準備して午前中に来て呉れ、と云はれたのを早判して、馬車に馬糞を一杯積んで所長宅に行ったとの事。そしたら、馬糧を積んでくると思ってた奥さんが、馬糞を一杯積んで来られて面食らったとか。
そう云った笑い話はカタコト交りしか喋れない我々には仕事の上ではちょいちょいだ。気のいゝロスケだったら笑話で治るが、立の悪いのに引っかゝったらブンなぐられる。
ロスケは一番先にチンポ、オマンコとかバカヤロとか云ふ言葉を覚えた。街なんかを通る子供が意味を知ってか知らんでは、ヤポン、バンザイと呼びかける。どう意味かロスケには聞いてもみなかったが、日本が今度無條件降服したことをさして輕ベツの意味らしかった。
我々が早く覚えた言葉は前に挙げたのもあるが、ヨッポイマーチ(馬鹿野郎。支那語の「マーラガピイ」と同じ)がある。之は仕事をやり損ったりすると直ぐロスケが口ぐせの様に使ふ言葉だ。また、我々がそれを使っても大して怒りもしない。

我々が聞いて一番感じの悪かった言葉は何と云っても、ダバァイだ。之は、ヤレと言ふ意味が一番多いだらう。仕事などしてゐる時、ちょっと捗らなかったり、休んだりしてゐると直ぐロスケが来て、ダバァイ、ダバァイと追ひ立てゝ仕事やらせる。之だけ朝鮮以来よく使はれて鍛はれてゐるので之を聞くと仕事もしたくなくなる。


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アジン、ドバー、ツリー、チティーリ・・・・、スパシーバ、オーチンハラショー・・・。今でも、私たちが子供のころに父から聞いた、これらのロシア語は、よく覚えています。中でも、上記のように、数の数え方は苦労して覚えたこともあって、よく話をしていました。

文中に「ポロスキーでは」というのが出てきますが、よくわかりません。「ポーランド語ではどう言うの?」という意味かとも思いますが、不明です。
ロシア人のことをロスケと呼んでいますが、ロシア語でロシア語、ロシア人のことをロスキーということから、「露助」というふうにあてて云っていたのだと思います。

2014年8月30日土曜日

その3 ゲルマン民族

3.ゲルマン民族

 ヒットラーが誇ったゲルマン民族も遂に倒れ、我等より一足先にロシヤの世話になって居た。タガノロフ市には相當数のドイツ人が居るらしく、日本人収容所の近所だけでも約千五百位居た。収容所も未完成なので彼らが四十名位収容所に作業に来て居た。
昨日到着したばかりの我々に対する態度は、飲みたがる煙草を呉れる、ロスケのことはいろいろ悪口云って呉れるといった具合で実に親切だった。彼らは言葉では我々より苦勞しない。ロスケの監督でも現場にやって来れば其の要領のいい事。初年兵當時の教官に対する態度と同様だ。それで又云って了うと怠けてばかりいて大して仕事しない。こう云ふ様な事が何度も出来る事ぢゃないけど、ドイツ人は其處をロスケに何とかかんとか言ひ譯して、シャアシャアして居る。根が頭の悪いロスケは、要領のいいゲルマンには一目措いているらしい。
貞操観念の悪い婦人はゲルマンの捕虜に惚れ込んで相當の仲のも居ると云ふ話。又、タガノロフ市にドイツ製の優秀なる機械類が相當運び込まれている。總てがロシヤの粗雑な製品より優秀なる事を自覺しているからだらう。
我々が段々仕事にも慣れて来て作業の%の事等も判るようになると、捕虜の作業の、楽で給料の多いような仕事はドイツ人が獨占し、日本人は汚い、重勞働方面、又はどんなに働いても給料も貰えない場所に、何時の間にか振り當てられて了って居たのだ。
我々の収容所内にもゲルマンの野心が伸びて来て居る。炊事の長はワイテルだし、作業副官もゲルマンだ。此奴がロスケの作業主任の下に居て各工場への人員割當をやって居たのだ。ワイテルは炊事の長をやって居乍ら、日本人に配給される糧秣を我々が言葉通じないのを幸ひに誤摩化して居たんだ。ロシヤ語も段々出来る様になり、いろいろの事情に慣れて了った後、漸く感づいて日本人は日本人の手でと追ひ出して了った。
工場は工場で彼等と共に働くと機材はいいのばかり獨占しやうとするし、仕事はなるべくやらずにパーセントだけ上げやうとするから、日本人をロスケから受けが悪い様に仕立てて行く。朝からは器材の奪ひ合ひだ。
一つの會社を例にして云へば、ゲルマンの中隊長が鉄工場に監督の秘書役で仕事はせずに現場をみて回って居たが、こいつが癖もので日本人のパーセントは実際の仕事量より減らして、ゲルマンのパーセントを増やして居た。
彼等が捕虜生活は二年も參年も先輩で、ロスケより相當め絞められてゐるのだから、それを要領よく抜け道して、少し位の悪い事をやった者が今も元気生き残って居るのだ。馬鹿正直に働いた者は仕事と給與が釣り合ずに、みんなのびて了って居たのだ。そう云った次第で、工場より品物を何とか眼を忍んで持出し、地方人に売り飛ばしてのどをうるほはして居る者が非常に多い。
ゲルマンの要領も、我々の3年間の在ソ生活で、遂にロスケに信用落して了ったアントレバー工場では、ゲルマンは要領ばかりで日本人の方が余程能率上がると立證して呉れ、此處の大きな工場では日本人を參、四百人も使用して呉れた。然も皆百五十円位月給を貰へるのだ。
我々は在ソ間、作業上大分ゲルマンと衝突したが、ゲルマンには民族的には非常に偉いところもある。ロシヤでは勞働八時間制になってゐる。捕虜も同じだ。それを使い主の方で少しでも多くと欲張って參十分でも一時間でもと時間を超過させようとする。
日本人の方は、収容所長に云ふとか、営倉に入れるとか云はれると泣き寝入りになる者が多いが、ゲルマンは断然之を蹴飛ばして了ふ。民族として自覺をはっきりと辨へている。もう二十年もしたら今度は又、ロスケをやっつけるんだと誰もが云って居た。
収容所内の清掃やいろいろの動作に於ては、確かに我々よりは優っていたハンガリーやオーストリヤもゲルマンの収容所内に一緒に居たが、風ボー[]や言語等に於いて又体位等純粋のドイツ人には遙かに劣ってゐた。
作業方面での衝突で、大分ドイツとも喧嘩したが、奴等は突き飛ばすのが得意だ。中にはボクシングの強い奴も居たが、平均すれば腕力に於ては素早い日本人には大抵負けて居た。第一番に喧嘩したのが○○君で、一發でノックアウトした。ロスケの作業主任が頑張って辯解して呉れて何事もなく済ました。其の後、主だった事件は四中隊の兵隊がドイツの中隊長を背負投食はして、鉄管で頭ぶっ叩いて打ち割った事件だ。その代わり參、四名でぶっつかって行ったがドイツ人一人にノックアウトされたと云ふ話もある。
大体ドイツとは防共協定を結んで居た関係上仲良くなくてはいかぬ筈なんだが、其の時は捕虜同士で競争相手であったからか總てがうまく行かなかった。他の収容所でたぶんこうだったらうと思ってゐる。



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生前、父がドイツ人捕虜と相撲をとったこと、柔道をたしなむ父が体の大きなドイツ人にも勝っていたことは聞いたことがありましたが、この手記の3番目に書くくらいのいやなものがドイツ人だった、というのは、同盟国とばかり思っていた私にとっては意外でした。

2014年8月23日土曜日

その2 列車輸送

2.列車輸送

前記野宿地に寝起きする事約二週間。其の間近所の(近所といってもニ、參粁は充分)道路修理に使はれて六月十八日に漸く明日乗車して目的地に出發することが判明する。この日より出發準備に取りかかった。
さて、十九日になると毛布仕立の天幕を撤収、装具を梱包して午前中に整列、線路の上の斜面にて装具の検査受く。ロスケの将校数名と兵隊数名が検査するんだが、之又程度の悪い奴が居て所持品のめぼしいものをかっぱらって了う。万年筆、時計等其の著しい例だ。
装具検査を二、參時間も費やして終わると貨車の準備が出来る迄其の儘待期。夕暮頃乗車して何處かに向かい出發するらしい。それが何處であるか大隊長始め我々には知る由もない。入院[出発?]直前に腹工[具]合悪くて、一名兵隊がゴスピタリ(入院)した。
予想通り夕暮に貨車に割當られた。六十トン貨車に約五十名だ。平壌より興南迄の八十名よりは余程増しだ。然し全員が横になったら歩くのに足の踏場も無し。横になって行けるだけ捕虜たる我々は感謝せねばなるまいて。貨車は六十トンの有蓋車だ。小窓はみんな釘付けしてあり小便する樋が片側の扉を少しあけて釘付けにしてある。大便小便すべてこれに依るのだ。逃亡を予想しての處置らしい。
全員乗車完了すると歩哨が人員点呼に来た。全員社内の前半に寄せられ、歩哨が立っている前を歩いて人の居ない片側に行くのだ。それを一、ニ、參と数えるのだが、そのロシヤ語が知らない我々にはピーナット、ドーナットと聞こえて可笑しくなって来る。数へ違へると腹立てて尻を蹴っ飛ばす。大体今迄のロスケがみんな数を読むのが下手だ。乗車地の将校は七千名かの人員を数へるのに一日を費やしたような次第だ。
点呼を終わって歩哨は下車すると扉を閉めて表より鍵を掛けた。六月の十九日と云えばシベリヤの真夏だ。狭い箱の中に50名も押詰められ、窓といふ窓は皆閉ざされて蒸し暑くて處置なし。之で何日と保てるであらうかと思ふと全く心細くなって了ふ。
暮くなってから北に向かって出發した。いざ出發してみると今迄乗り馴れた内地や満州の列車に比したら、その反動のひどい事、ひどい事。丸でパンクした自働車で凸凹道でも走る様だ。車内は真っ暗で蒸し暑く、おまけに車内に便所があるのでクサくて全く堪らない。
我々も捕虜として此處まで来た以上環境に參って了っては之又仕方ないので、やけくそになって、就寝前には寝て居る順で演藝會等を実施する。腹一杯食って涼しいところでやるのと違ひ、クサさと暑さと暗さとガタガタとに斗い乍ら、やるのだから悲壮だ。
參日位経ってシベリヤ本線に入ったらガタガタも大分静かになった。朝になると歩哨が各列車を巡って来て扉を開いて、点呼を取る。御機嫌がいいときは無事だが、そうでない時は一名二名は必ず突き飛ばされるか蹴飛ばされる。朝の点呼が済むと片側の大扉は開放されるので、異境の地を眺めるのに余念無し。人家が稀にあり、あとは草原や松林のみ。実に殺風景な眺めだ。東海道線の眺めに比したら淋しい極みなりき。雄大な眺めと云うかも知れんが、之も捕虜で然も何處の勞働に引っ張られていくかも判らんものには、その気持ちも少しも無し。
食事の方は車輌が数重あって、中央の車輌が炊事車だ。此處で勤務員(日本人)が五、六名。千名の食事を大きな釜で炊いてくれる。米も時々はあったが、殆ど粉類が多く、一人分飯盒の蓋一杯だ。一日に二回。それにパンが參五〇瓦。朝鮮産のグリコース(工業用砂糖)が角砂糖一ツ分位。メンタイの乾物が五匹。その儘渡される。まあ、どうせ車内でゴロゴロ寝て居るんだからどうやら過ごせないでもなかった。水は車内より五、六名當番出して、停車時間の長い駅で水筒に詰めて来る。暑い盛りで思ふよう補給できず水だけにはほとほと困った。
タバコは収容されて以来二、參回支給されただけなので、みんな困り續けだ。自分はこの列車に乗車二日前に糧秣係のロスケに腕時計をやって煙草を五〇〇瓦位貰ったので、車内では実に円滑に、乗りあはせた戦友にも大分吸はせてやった。
シベリヤ鉄道もバイカル湖畔を通るときは六月末と云ふのに寒くて仕様がなかった。乗車直後の暑さを羨めしいと思った。防寒外套、毛布をかぶっても夜明は眠れなかった。又湖畔と云ふと内地の湖の畔を思ひ浮かべ易いが、世界で一番大きな湖だけに、丸で海の様である。朝だったからかも知れないが、水は澄んで冷たさうであった。
ノボシビリスクに停車したら二時間位して入浴と被服の消毒をした。之は駅から二粁位のところにある検疫所で、着用してゐる被服一切、毛布、外套等全部蒸気室の中で消毒するのだ。しらみとは縁のある捕虜にとっては実に親切なやり方である。又、ロスケに取っての發疹チフス予防の為になくてならぬものだ。
入浴の方は一度に何千という人間が入れる広さで、日本式の浴槽とは違ひ、蛇口が熱湯と水が並んで豊富に流れ出て来る。我々は朝鮮出發以来、風呂に入って居ないもんだから、汚が出るわ出るわ。何度こすっても限りなし。首迄つかって了ふのだったら、ホトびてよく落ちるかも知れないが、洗面器で流すんだから知れたもんだ。
入浴が終わるとビホンビホン(脚注:ビホンとは急げのこと)と尻追いまくられて貨車に歸った。約一日停車の後、さらに出發。約十日も汽車に乗り續くるもいまだ行先不明。駅構内でロスケが云ふにゃ、ニポンスキーは一九四八年に歸れる、と。之から二年も何に使はれるか知らんが、不安なものだ。
沿線のロシヤ人の感じは? 言葉を知らぬ自分等は向ふから話しかけられてもチンプンカンプンで、さっぱり判らず大していいとは思へなかった。停車すると車内にロスケの兵隊が上がってきても我々をからかふ。その隙に、ゆだんすると品物をかっぱらって行って了ふ。
ノモンハン事件に參加した兵隊の多い街等では、水汲みに行く兵隊に石を投げつけたり水筒をかっぱらったり、未だ幾らか恨みを残して居るんだらう。子供が車輌目がけて石を投げつけるのが大分居た。又、我々が煙草を欲しがって居るのを知ってか、煙草の小箱をみせて万年筆と交換してやると云ふ。それを信用してうっかり交換すると一箱だけは中身が入っていたが、後三箱は空っぽすだったりだ。
しかし、悪い奴ばかりでもない。中には果物を持って来て呉れたり、口付きのパピロスと云う煙草を呉れた◆◆◆◆(読取不能)大分見られた。オムスクよりモスコーに近い方に行くと、我々を珍しがって居た様だ。
ウラルの山脈に入ると電気汽缶(機関)車だ。長い長いのぼり坂。内地の長さとケタが違う。ようやく一日位掛って通り過ぎた。一本の列車が〔蛇行する曲線〕この位曲がってマーロマーロ(脚注:マーロとは少しずつ、ゆっくり)で上っていくんだから無理もない。
列車より見る沿線の建物、シベリヤ付近は実にソボクに出来て居る。主に木造建が多い。ウラルを越えてだんだん向ふに行くと木造が少なくなって、煉瓦積み泥壁が多くなって云った様に思ふ。
愈々二十日も汽車に乗っているのに下車するなんて噂にも出ない。外の景色もだんだん東洋とは変わって行くのか、大してみる気もしない。車内で麻雀やったり碁将基(棋)がえらくはやる。ドン河も渡りドナウ河も渡った。オビ、エニセーの大河もシベリヤで渡ってきてゐる。ボルガの舟歌で聞こえたボルガ河はやはり相當の広さだ。川汽船が静かに動いて居た様だった。
汽車旅行も十日以上となれば停止して居る時よりも走って居る時の方が安心して眠れるとは今度始めて味った。グッスリ眠って居る時でも汽車が停止して静かになると何時の間にか眠りが覚める。まったく可笑しい位だ。

以上述べた様な車中生活にも二十五日にして漸く終りを告げた。七月一四日にアゾフ海沿岸のタガノロフ市に到着。貨物列車引込線にて全員下車した。


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現在でも、シベリア鉄道のウラジオストック~ウクライナ(ドネツク)間が9日間かかるということですが、25日間の窓のない貨車での移動は、想像を絶するものです。それにしても、そんな中でも演芸会やら麻雀、囲碁将棋などに興ずるというところには、しぶとさを感じます。