2014年12月6日土曜日

21 かっぱらいについて

21.かっぱらいについて

 現在の日本でもさうだが、泥棒や空き巣が横行してゐて一寸の油断も出来ない。

鉄のカーテンの内でも、こそ泥は非常に多い。と云っても勞働者や各個人々々の家へ侵入すると言ふことは、良く知らないが、我々の居たタガロノフ市の状態は、国家管理になってゐる會社が大分あったが、其處にある材料、製品、または糧秣等ちょいちょいロシヤ人が持って歸って了ふ。そしてそれを闇市場へ持って行って売るか、物々交換をやる譯である。

我々が働いてゐた飛行機試作工場内では、捕虜を監督する立場のロスケが大きな闇を平気でやってのける。トラックで石炭でも運搬する様な場合には、石炭持出證明は正式に書いて貰って闇にならないが、其の石炭の下に鉄板の広いものを隠したり、板類を忍ばせたりして持出し、闇値で売り飛ばして私服を肥やしてゐる。その仕事に我々もちょいちょい手伝はされた。
材木工場では工場の外柵から潜り込んで、材木を引きずり出して、之又闇市へ売って来る。停車場等に貨車が停車してゐると、中に糧秣でも積んであれば、歩哨の眼を盗んでちょこっとかっぱらっていゆく。子供だからと思って油断してゐると、大人も顔負する位の大仕事をやり出すから叶はん。
貨車等板までひっぱいで中にもぐり込み麦等大量[]かっぱらふのをみたことがある。煉瓦工場では採集した土の乾燥をさせるベルトコンベアーを巾が二、參尺の長さか何十尺と云ふものをごっそり持って行って了はれて、早速明朝より仕事が出来なかった。
ロシヤの警察は此の様な時にはセパードを使用して犯人を捜索する。コンベヤーの時は犬の嗅覺によれば海岸まで運んで舟で逃げたらしいことが判明した。人殺しはたった一辺だけ目撃した。言葉も字もはっきり判らなかったが、警察力は戦前の日本程にないだらうと思った。

ロシヤ人の間に以上の様な闇やかっぱらいがはやるので、我々も大分得をしたこともある。我々の監督が闇をやる時には、それに手伝ひをして、何か分け前を貰ふ。それにパーセント迄増して貰った自動車積み込みの作業では、砂運搬でもやる時は一日四台を目的地に運べばいいものをその四回を早く終って、あとは一、二台余計運搬し民間に横流ししてそれ相當のルーブル(円)を貰ふ。それに此の時の往きかへりには街から海岸へ行く人、海岸から街へ出る人を十円均一でトラックに乗せてやり、之だけでも五、六回往復すれば相當の額に上る。こんな時には運轉手がご馳走して呉れるか現金を分けて呉れるので、我々は大いに助かったのだ。
収容所内でも硝子がわれりゃ工場から持って来い、電球が切れたら支給して呉れ、と請求すれば工場に澤山あるから持って来い、とロスケの幹部が言ふので、何とかして必要なものは工場の品物を収容所に運び込んだ。収容所に是非必要なものをかっぱらって来れば夕食を余計に呉れる。そして大体揃って不便を感じなくなると、工場からの物品持出しは刑法に引っかかるから絶対に持ち出してはならない、と注意される。丸で泥棒の養成所みたいだった。

或る霧の深い日に、自分の作業班八名だけでトラック二台に便乗してタガノロフ駅より煉瓦工場に石炭を運搬した時には、霧の深いのを幸にして、径七、八寸の丸太二米位の材木を石炭の下に埋め込んで、知らぬ顔をして構内を出て了ひ、バザール(闇市場)の前迄来て掘り出して二本八〇円で売り飛ばし、黒パンの大きい奴を買って食ったこともある。此の時は運轉手と監督は20円ずつ位握らせたら上機嫌だった。
又線路工事をやってゐる時には、枕木の腐食したのを掘り起こすと、何時の間にやら子供が持って行って了ふ。木材類はシベリヤと違って、一寸した街中だから実に値が高くて、薪類に不自由してゐたからだらう。石炭なんかも見張り員なしで野積みしてあれば忽ちかっぱらわれて了ふ。

以上の様な状態だから工場の守衛は皆小銃持って、兵隊の歩哨みたいに動哨してゐるし、糧秣倉庫、駅の構内等には必ず小銃を持った監視が立ってゐる。タガノロフ市に到着した當座は我々捕虜が行ったので特別警戒してゐるのかと思ってゐたのだが、何のロシヤ人事態を監視してゐたのである。同じ国民同士であり乍ら小銃に実砲迄装填して監視せんでもいいんぢゃあないかなと思ふと一寸変な感じがした。

では此の現行犯で捕へられた者の罰はなかなか重い。特に糧秣関係の犯罪はひどいさうである。体刑の三、四年は普通らしい。一寸重いのは總てシベリヤに送られて強制勞働収容所に入れられて兵隊の歩哨に剣突きつけられながら重勞働に服せねばならないのだ。ロシア人は一年二年の懲役は何とも思っていない。

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「現在の日本でもさうだが」というのは、父がこの手記を書いていた昭和23年の暮れから翌24年の初め、まだまだ戦後の物資不足が続いていたころでしょうから、「闇市」もあったでしょうし、かっぱらいも多かったのだと思います。

父のいた収容所は、前にも書いたように、黒海に続くアゾフ海に面する軍港都市にあったので、上記にも出てくる工場などもあり、比較的に物資もあったので、「横流し」などで得たお金で、パンを買ったり煙草を買ったりできたのだと思います。
こうしたこともできない環境の収容所で生活された人たちは、ただただ厳しい生活を送られていたのではないでしょうか。

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