2014年12月28日日曜日

【ちょっとお休み その2】 本当のシベリアは・・・

 今週も、お休みをいただいて・・・。

 父が収容所生活を送ったタガンログは、比較的に温暖で、どちらかといえば都市部ということなので、恵まれていたのかもしれませんが、バイカル湖周辺やハバロフスク北方のツンドラ地帯にも多くの日本兵が抑留されていました。
 そこでは、日中でもマイナス30℃とか40℃までしか上がらないような、厳冬の地域もあり、そこでは、たくさんの方が亡くなっています。このような地域には、あまり人も住んでおらず、物資も少なければ病院もないわけですから、ほんのちょっとした病気や怪我でも命を落とすことになったのだろうと思われます。

 このような地域に、抑留された方の手記もたくさんのあり、私も最近少しずつ読んでいますが、中でも、高橋秀雄さんという方が書かれたものをご紹介したいと思います。

「私のシベリア抑留記」
http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm

 この方は、バイカル湖西方のイルクーツク地方のチュレンホーヴォの収容所で、昭和20年の暮れ頃から24年の秋まで抑留生活を送られました。
 シベリア鉄道での移動途中で悩まされた虱の話などは共通ですが、日本軍時代から続いた「初年兵苛め」をはじめとする階級差別と、その反動として過激化した民主運動(捕虜同士の殺人も起こった収容所もあったようです)のことなどは、父の手記からはわかりませんでした。

 「シベリアに護送された時軍隊戦友が四千余人だったが、無事帰還できたのは二千四百余人であった。」という記述があります。

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/syakai/soren/chihou/irukutuku/index.html

 厚生労働省のHP(埋葬津別死亡者名簿)で公開されている資料を見ても、どれが、チュレンホーヴォの収容所かよく分かりませんが、記事中に出てくる亡くなった「下山一等兵」の「下山」を頼りに、名前を探すと1人だけ出てきます。

第32収容所・第6支部グリシェフ村 「下山勝治」さん
http://www.mhlw.go.jp/topics//syakai/soren/chihou/irukutuku/html/4052.html

 仮にこの「第32収容所」がチュレンホーヴォの収容所だったすると、収容所内に埋葬された方々がおおよそ800名、近くと思われる病院で死亡された方が800名弱ということでこれに符合するようです。
 とても厳しい収容所生活だったことでしょう。 

2014年12月21日日曜日

【ちょっとお休み・その1】 タガンログについて

 これまで、4ヶ月にわたっって、父の手記を公開してきましたが、ここで、ちょっとお休みをして、父が、抑留生活を送ったタガンログという街をご紹介 ~ というほど詳しくはありません。もちろん行ったこともありません。 ~ したいと思います。

 「シベリア抑留記」としてきましたが、父が抑留されていた収容所があったところは、黒海に繋がるアゾフ海沿いに位置しています。


 17世紀の終わりに、ピョートル大帝がロシア艦隊の基地として作った街で、19世紀には交易で栄えたそうで、現在も港湾を生かした産業が盛んな地域だと思われます。
 1941年から43年までドイツ軍に占領されていた時期もあったようです。

 人口は約28万人。チェーホフの生まれ暮らした地として有名で、生家のほかにミュージアムなどチェーホフゆかりの施設を含め観光スポット多いようです。

http://www.taganrogcity.com/index.html


 厚生労働省が公表している資料(元はソ連邦が公開したもの)によると、タガンログ周辺では、250kmほど北のドゥルシコフに野戦病院があり、106人の死亡者あったとされています。また、さらに北へ500kmのハリコフという街の墓地等には50名を超える死者が埋葬されたとのこと。
 そのほか、西へ340kmのサポロージェ、さらに北西へ300kmのドニエプロペトロフスクにも収容所があったとされています。

厚生労働省HPより


2014年12月13日土曜日

22 壁新聞 、 23 生産会議

22.壁新聞

 ロシヤの国は本當に壁新聞を十分に活用してゐる。
いろんな工場の状況や思想教育、生産促進対策等、内地の新聞紙大の額の中に絵迄入れて各工場等、工員休憩所に掛けてある。我々の収容所でもロスケの命令で中隊毎に壁新聞を作ることになった。
 原かう[稿]は、中隊全員に募集して、その中より選定して壁新聞に發表する。此の中に論文あり、中隊の声として隊員の要望事項あり、文藝欄あり、生産促進の対策についての意見あり、と云った具合で、その中隊の壁新聞を読めば、大体中隊の空気なるものが察しがつくと云ったところだった。
 それに又漫画新聞がある。之は絵の上手なのが、漫画をその時にマッチするように書いて、面白く宣伝しやうと云ふのである。
 之等は一週に一度新しいのと貼り代へた。この様な壁新聞、漫画新聞なるものは皆から次々に集まってくるところの原コウに依って完成してゆくのであるから、工場なら工場の、中隊なら中隊の各人かくじんの盛り上る声である譯だ。それに対して経験の優れた人、学識のある人、即ち指導者がよい結論を與へて、善導してゆくならば確かに民主主義である。
 
 だから、壁新聞は現在の大江工場あたりも使用して大いに啓蒙して行くならば面白いであらうし、又工場全体の空気がどんな状態であるかも想像がつく事であらうと思ふ。


23.生産會議

 ロシヤでは、一月に一回乃至二回、生産會議なるものを開いてゐる。
 工場内に働く勞働者は作業班が編成されて、班長以下五、六名が一グループになって一つの作業に従事してゐる。そう云ふ作業班が幾つか集まって工場作業が行はれてゐる譯だ。
そして一月の中には各作業班の仕事の完遂量がパーセントに依って發表される。百パーセント以上もあれば以下もあるが、之等の作業班長が集合して、その月の仕事完遂量に対していろいろ意見をのべ合ふのが生産會議である。
 自分の作業班は今月はどうしたからこんな良パーセントを貰へたか、又は自分の作業班はどの点が悪かったからパーセントがよくなかったとか、今後の生産をよくするために作業班長若しくは班の代表者が意見をのべ、その対策を研究するのが生産會議であった。
此の時に作業成績の良かった班は賞められるし、悪かった班は叱られる。ロシヤの様な總てが国民によって管理されてゐるところは仕事量が制定されている関係上、こうやって生産能率の昂揚を図ってゐる譯だ。

 我々の今働いてゐる工場でも之を真似る必要はないが、右の様な計画を立ててみたら、未だお互ひ同志の手で生産能率は上昇するのでなからうかと思ふ。
現在行はれてゐる課長打合せ會議も悪くはないが、組長以上位集めてザックバランに意見述べ合ったら面白いだらうと思ってゐる。


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 父は戦前、大蔵省専売局に就職し、戦後も定年まで、専売公社(のちの日本たばこ㈱=JT)に勤めました。
 戦後、いつ頃から復職したかは定かではありませんが、ソ連から帰国すると熊本の実家に帰り、そのまま、熊本の工場に勤務したものと思われます。 文中に出てくる「大江工場」は、後の「熊本工場」(熊本市中央区大江、県立劇場前)のことです。
 たばこ工場は、喫煙者数の減少もあり、九州では、福岡、大分(臼杵)などとともに熊本工場も閉鎖となり、今では北九州工場一つだけになっています。

 父のソ連での経験がどの程度、帰国後の現場で生かせたのかは分かりませんが、「生産會議」を経験した多くの日本人が、帰国後に生産現場戻っていったわけですから、ひょっとして、その後の高度成長や「カイゼン」に繋がって行ったのかもしれません。

2014年12月6日土曜日

21 かっぱらいについて

21.かっぱらいについて

 現在の日本でもさうだが、泥棒や空き巣が横行してゐて一寸の油断も出来ない。

鉄のカーテンの内でも、こそ泥は非常に多い。と云っても勞働者や各個人々々の家へ侵入すると言ふことは、良く知らないが、我々の居たタガロノフ市の状態は、国家管理になってゐる會社が大分あったが、其處にある材料、製品、または糧秣等ちょいちょいロシヤ人が持って歸って了ふ。そしてそれを闇市場へ持って行って売るか、物々交換をやる譯である。

我々が働いてゐた飛行機試作工場内では、捕虜を監督する立場のロスケが大きな闇を平気でやってのける。トラックで石炭でも運搬する様な場合には、石炭持出證明は正式に書いて貰って闇にならないが、其の石炭の下に鉄板の広いものを隠したり、板類を忍ばせたりして持出し、闇値で売り飛ばして私服を肥やしてゐる。その仕事に我々もちょいちょい手伝はされた。
材木工場では工場の外柵から潜り込んで、材木を引きずり出して、之又闇市へ売って来る。停車場等に貨車が停車してゐると、中に糧秣でも積んであれば、歩哨の眼を盗んでちょこっとかっぱらっていゆく。子供だからと思って油断してゐると、大人も顔負する位の大仕事をやり出すから叶はん。
貨車等板までひっぱいで中にもぐり込み麦等大量[]かっぱらふのをみたことがある。煉瓦工場では採集した土の乾燥をさせるベルトコンベアーを巾が二、參尺の長さか何十尺と云ふものをごっそり持って行って了はれて、早速明朝より仕事が出来なかった。
ロシヤの警察は此の様な時にはセパードを使用して犯人を捜索する。コンベヤーの時は犬の嗅覺によれば海岸まで運んで舟で逃げたらしいことが判明した。人殺しはたった一辺だけ目撃した。言葉も字もはっきり判らなかったが、警察力は戦前の日本程にないだらうと思った。

ロシヤ人の間に以上の様な闇やかっぱらいがはやるので、我々も大分得をしたこともある。我々の監督が闇をやる時には、それに手伝ひをして、何か分け前を貰ふ。それにパーセント迄増して貰った自動車積み込みの作業では、砂運搬でもやる時は一日四台を目的地に運べばいいものをその四回を早く終って、あとは一、二台余計運搬し民間に横流ししてそれ相當のルーブル(円)を貰ふ。それに此の時の往きかへりには街から海岸へ行く人、海岸から街へ出る人を十円均一でトラックに乗せてやり、之だけでも五、六回往復すれば相當の額に上る。こんな時には運轉手がご馳走して呉れるか現金を分けて呉れるので、我々は大いに助かったのだ。
収容所内でも硝子がわれりゃ工場から持って来い、電球が切れたら支給して呉れ、と請求すれば工場に澤山あるから持って来い、とロスケの幹部が言ふので、何とかして必要なものは工場の品物を収容所に運び込んだ。収容所に是非必要なものをかっぱらって来れば夕食を余計に呉れる。そして大体揃って不便を感じなくなると、工場からの物品持出しは刑法に引っかかるから絶対に持ち出してはならない、と注意される。丸で泥棒の養成所みたいだった。

或る霧の深い日に、自分の作業班八名だけでトラック二台に便乗してタガノロフ駅より煉瓦工場に石炭を運搬した時には、霧の深いのを幸にして、径七、八寸の丸太二米位の材木を石炭の下に埋め込んで、知らぬ顔をして構内を出て了ひ、バザール(闇市場)の前迄来て掘り出して二本八〇円で売り飛ばし、黒パンの大きい奴を買って食ったこともある。此の時は運轉手と監督は20円ずつ位握らせたら上機嫌だった。
又線路工事をやってゐる時には、枕木の腐食したのを掘り起こすと、何時の間にやら子供が持って行って了ふ。木材類はシベリヤと違って、一寸した街中だから実に値が高くて、薪類に不自由してゐたからだらう。石炭なんかも見張り員なしで野積みしてあれば忽ちかっぱらわれて了ふ。

以上の様な状態だから工場の守衛は皆小銃持って、兵隊の歩哨みたいに動哨してゐるし、糧秣倉庫、駅の構内等には必ず小銃を持った監視が立ってゐる。タガノロフ市に到着した當座は我々捕虜が行ったので特別警戒してゐるのかと思ってゐたのだが、何のロシヤ人事態を監視してゐたのである。同じ国民同士であり乍ら小銃に実砲迄装填して監視せんでもいいんぢゃあないかなと思ふと一寸変な感じがした。

では此の現行犯で捕へられた者の罰はなかなか重い。特に糧秣関係の犯罪はひどいさうである。体刑の三、四年は普通らしい。一寸重いのは總てシベリヤに送られて強制勞働収容所に入れられて兵隊の歩哨に剣突きつけられながら重勞働に服せねばならないのだ。ロシア人は一年二年の懲役は何とも思っていない。

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「現在の日本でもさうだが」というのは、父がこの手記を書いていた昭和23年の暮れから翌24年の初め、まだまだ戦後の物資不足が続いていたころでしょうから、「闇市」もあったでしょうし、かっぱらいも多かったのだと思います。

父のいた収容所は、前にも書いたように、黒海に続くアゾフ海に面する軍港都市にあったので、上記にも出てくる工場などもあり、比較的に物資もあったので、「横流し」などで得たお金で、パンを買ったり煙草を買ったりできたのだと思います。
こうしたこともできない環境の収容所で生活された人たちは、ただただ厳しい生活を送られていたのではないでしょうか。