2014年9月28日日曜日

その7 衛星、清潔

7.衛生、清潔

診断に就いては前述の通りだが、一般衛生には非常に嚴重であった様だ。第一に虱だ。發疹チブスには本當に弱いロスキーが此れを恐ろしがるのは無理もないが、虱検査だけは朝鮮以来何處にもつきもの。虱が居やうものなら大事。大隊全員滅菌をやらされる。一週間に一度位必ず実施されるが、之ばかりは幾らやっても中に一人二人不精な者が居るから、全然居なくなったと云ふためしがない。
此の虱の為二十參年十二月に戦友參人が發疹チブスにやられた。之が真性と判明するや、収容所は上を下への大騒動。藁ブトン、毛布、枕、寝台、外套、其の他被服全部、それに兵舎も總て蒸気消毒が実施された。勿論作業は全然中止。ソ聯人とは嚴重に隔離されて了った。収容所長、ソ聯女医、看護婦、みんな夜も寝ないで我々の滅菌の状況を見廻ってゐた。二、三日は我々も満足に寝れない。然し、みんな作業が休めるんで余程良かった。
入浴に入って裸体になってゐる間に着物全部を熱気室の中で消毒やる。滅菌所の勤務は第三、第四グループがやってゐたが、こう毎日やられたら、こっちが伸びて了ふと心配していた。入浴滅菌の日課が約十二日間續いた。

人間て贅澤なもんで虱の御蔭で十二日も休ませてくれたのに、こう毎日、滅菌が續けられたんでは叶わん。之ぢゃ体がえらくっても作業に出た方が余程良いと云ふ様になってきた。虱にはロスキーからもやいやい言われたが、我々自身も夜、床の中でモズモズされて困ったし作業の行き歸りにも又然り。之は神経を苛立たせ、それに作業の疲勞回復のための大事な睡眠を妨害するのである。
作業なしで十二日間も遊ばせて貰ひ、滅菌もゆきとどいて虱も少なくなったので、皆大分肥えて来た様であった。此の期間中の体重測定では七一瓩になってゐた。
虱のことでいやなことは腋毛と陰毛の剃り落しだった。場所によってはソ聯の若い看護婦が実施したところがあったさうだが、我々は自分で戦友にやって貰った。
真夏にやった時なんか、汗が出て重勞働やる我々には痛いこと痛いこと。捕虜なるが故だと諦めるより仕方なかった。ロスケに云わすりゃ、毛があるから余計虱がたかると云ふのだ。在ソ中には全部で四回くらいやられた。

虱の次が南京虫だった。タガノロフ市到着當時は新しい宿舎だったので、全然居なかったのが、ドイツ人の収容所より運んだ寝台に棲息していた為、一冬過ぎる時には物凄い繁殖振りだった。ウトウト深い眠りに入ろうとするとチクチクッと食らひつく。一匹や二匹なら大したこともないが、一ぺんに十何匹と云ふ程毛布の間に侵入して来て全く眠られない。飛び起きてつぶさうとすると、くもの子を散らすように逃げ込んで了ふ。油虫臭い特有の臭ひを發する。虱の食ひ方よりも一段と痛い。之によって化膿したものが大分居た様だ。
之に対しては月に一回位蒸汽で以って寝台の裏なんかを消毒やったが、絶対に減少しなかった。飛行機の防風ガラス等で自分の寝台を焼いて防いだが、直ぐ又隣の寝台から越境して来るから同じだった。蚤には割に惱まされなかった。
年中を通じてやかましかったのは、舎内外の清掃なり。これは日本の軍隊よりも尚嚴しかった。考へ方によるが、捕虜が千何百も狭い収容所に入れられてゐるのだから、黙って居ればどんなにか不潔になるであらう。それをロスケが考えてか、実にやかましく掃除をうるさく云ふ。床板なんぞは針金のブラシで白くなるまで磨かせるのである。二年間もこすったので歸る時は大分摺り減ってゐた様だ。庭の手入等吸殻一つ落ちてゐたんでは収容所の衛生清潔は零になる。ロスケの幹部の着眼は便所だ。此處がピシャリ掃除できて居りさへすれば気嫌がいゝ。

便所と云へば、収容所の便所を説明しよう。水の流れる様になった深い溝が二本、便所の棟に沿ふて縦に通り、其の外側に足をのせるところの踏み台がコンクリート製で出来てゐる。其處にしゃがんで前記の溝に糞を垂れると、水で流すことになる。それが一人一人の分に仕切りをしてある譯でもなく、糞垂れ姿は後からも前からも丸見えだ。

足をのせる台にしゃがんで糞垂れるのが満員になると、如何にも電線に止まっている様にみえて、前に長い者が各々ブラ下がっているから面白い。今、こちらであんな事したら恥ずかしがって誰もあんな便所には入るまい。此の便所にも後では馴れて了ってなんとも感じなくなった。未だ素裸体で女医さんに尻の肉付きを見て貰ふのが恥ずかしい位だ

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蚤は、犬、猫にもいるのでまだなじみがありますが、シラミや、ましてや南京虫に至っては、私たちの世代でもなかなかお目にかかりません。
しかし、下の毛まで剃られるとは・・・。欧米の方には剃毛している人が多いという話を聞きますが、果たして虱対策なんでしょうか。


2014年9月20日土曜日

その6 休養について

6.休養に就いて

タガノロフ市に着いて直後は、一ヶ月の中に一回休めたらいい方。日曜日にまで殆ど作業に引っ張り出された。起床後食事して、作業出發迄のニ、三十分は、みんなグーグー眠って出發の合図も判らぬ位に疲勞の蓄積だった。
四時半乃至五時に起床、六時過ぎ前に千名近くの人員が食事を終わり、七時に作業出發、八時に作業開始。晝の一時間休みを除いて八時間勞働で五時に終了。六時頃より夕食。食後は自由だが、被服の手入等で毎晩寝るのは十時だ。それで居て飯は足らぬのだから何のゆっくり休む暇があらう。一ヶ月を休みなしに作業すると疲勞の度は大したもんだ。

一日だけ、漸く與えられた休日には、朝から兵舎や庭の掃除々々で約半日は取られる。冬の一番寒い時期等はいっそ凍傷にでもなって休んだほうがましかも知れんと何度思ったことか。作業による過勞、食料不足等の関係で体力は日一日と衰弱して行くのが眼に見える様だ。
終戦直後ロスケと喧嘩したり作業を怠ったりしてみつかったものは懲罰部隊という編成に入れられ、八時間勞働も一番重勞働をやらされて、其の上歸営後更に四時間の強制勞働に服せられるのだ。

二十二年の半(ば)頃から、収容所長が交代になりアリルエフ少佐が来任されてより、大分我々の意見を尊重して呉れ、一ヶ月内の休暇も四回と決定し各人は大体一月に4回は休める様になった。懲罰部隊も廃止となり皆の気持ちが明るくなって余裕が見えてきた。
サナトリウムと云ふ休息室が完成されて、自分は之に第一回目に休息した。この制度は、作業成績の非常に優秀なるものを、十日間だけ作業やらせず、食事も一倍半位食べさして、休まして呉れるのだ。自分は優良作業班の班長としてこの權利を得た譯。十日間の間に參瓩体重が殖えた。

それから作業は体力階級によって割り當てられる。此の階級とは第一、第二、第三、第四とあって、第一グループとは如何なる重勞働にも耐へ得られる者、第二グループは普通の勞働に堪へられる者、第參グループとは軽勞働にしか堪へられない者、第四はオーカーといって弱体者だ。第一、第二グループは八時間勞働、第三グループは四時間勞働だ。第四は勞働はなし。然して此れは収容所に残って軽い使役をやらせられる位が関の山だ。然して此この階級はソ聯の女医と日本の軍医が身体検査(月例)に於いて決定する。

診断に就いては収容所全員千三百五十名の中に病気で作業を休み得る者は大体四十名位とみていゝ。手や足の負傷で、どうしても出場されないもの、風にて熱のある者、下痢患者が大多数である。このやうな患者が四十名も越える様になって来ると、一日に十回位下痢しても、熱が三十七度五分位になっても、ビッコ引く位の負傷でも、作業に引っ張り出されることになる。でないと、余計に患者を出したと云ふので収容所の女医がスターリンから叱られるさうだ。

患者の少ない時ならば直ぐ休ませるのが右の様な時は歩けない様な者まで作業やらせられるから益々悪化する。どうにもならなくなると作業休を呉れるが、其の代わりに休んで居た患者の満足に直って居ない者が早速出されると云った具合。兎に角、作業休に就いてだけは実にひどいやり方だった。


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先日、やはりお父様が抑留されていたという方とお話をする機会がありましたが、収容所の所長や、医師によっては、被抑留者の労働のさせ方にもずいぶん違いがあり、生還率にも大きな差があったという話をお聞きしました。
その方のお父上がいた収容所は99%の方が生還されたとか。(全体の生還率は9割、70万人抑留されて、1割が収容先で亡くなったといわれています。)

2014年9月13日土曜日

その5 作業について

5.作業に就いて

 我々の部隊のやった作業は、大体ロシヤとドイツとの戦争で破壊された工場及び建物の復興が主だった。従って一つ一つの仕事も煉瓦積の破壊やら煉瓦についてゐるモルタル落し、煉瓦積工、セメント練、大工、だった。其の他機械工場の掃除やら鋳物工場のグラインダー作業、旋盤作業、重量物運搬作業、自動車積降し作業、線路工夫、壁塗りもあった。

自分でやったのは、セメント會社に約半年。此處には砂、セメント、石灰、炭殻が材料で、一部はミキサーを使ってセメントを練って、これを他工場の煉瓦積やってゐるところへ運び込むんだ。之が、一日やらねばならぬ仕事量が大きな事には我々は相當鍛われた。
どれだけやってもやっても、パーセントは百パーセント以下。給與、糧秣はおかげで減らされるし、ますます作業が悪くなるばかり。冬になると水か氷ってミキサー(セメント練り機械)は運轉不能になるから4人ばかりで円匙でセメント、砂、又は石を練り合わせねばならぬ。食事がウンと不足勝ちで足のフンばりもなくなって来る。ロスケはお前等が作業成績が悪いから給與を悪くするんだ、成績を上げてみろ、何ぼでも食わしてやるからと云ふ。それで我々は良心的に一生懸命にやっていたんだが、あとでは馬鹿らしくて真面目に仕事しなかった。

平均五、六名一組で作業班が編成される。その班が班長以下同一仕事に従事して仕事量のパーセントを貰ひ、それに依って食事の方も増減する仕組みになっている。そんな譯で易い仕事の方はパーセントもよく向上するので飯もよく食へるし月給も貰へるが、仕事に依ってはどれだけ努力しようとパーセントは向上せずその為飯の量も少なく月給も貰へない。その為仕事は益々低下し、本人は日一日と痩せ衰えて行く。
自分の班もパーセントの悪いセメント會社に行ったので、仕事は多くやらされた上食事は少ないので班員がだんだん弱体者になって了った。この食事の量で人間をこき使ってるようなもんだ。人間はいやしいから無理やり働かねばならぬのだ。日本でも捕虜は使ってゐたが作業を主食の増減に依ってつり出していた事はないだらう。

自分が八名の作業班長として一九四六年の十二月よりカーペーぺのセメント練りを始めた。それ迄は、同所で斉藤[]長が作業班長だった。班長は班員を指揮統率して、ロスケより受けた作業を完遂する任務を有する。それに作業前には班長の名前で器材を借用して、作業中には紛失に注意し作業終了后は、朝借りた員数をロスケに返納せねばならぬ。
如何にしたら作業能率を向上させるか、創意工夫して班員を適材適所に配置せねばならぬのだ。そしてその上班員を引きずって行くだけの仕事を率先垂範、実行せねばならない。故に筋肉勞働だけでなく精神的にも疲勞する譯だ。十二月に班長になって以来幸に%も百%より下らず一月末頃まで頑張り通した。

二月の初よりタガノロフ市から一つ離れた駅の除雪作業に轉用された。この年は何十年振りの大雪とてよく雪が降り續いて、駅構内も積雪の為運轉不能になりかけたのだ。毎日この駅へ參百名近くの人員が雪除作業に使はれた次第。
二月だから毎日気温が零下二〇度位に下がる。冷たい朝八時よりタガノロフ市の駅まで雪道を歩いて行き、此處から汽車に乗ってマルツワの駅に行くのだ。歩く間はよいが駅に付いてから列車が来る迄二時間も參時間もかかる事がある。其の間火の気の一つもない貨車のプラットホームで待機せねばならぬ。どんな乾燥した短靴をはいてゐても雪の上を歩いて来るだけで相當湿りけを持つ。足の痛いこと痛いこと。冷たいのを通り越した痛さだ。
駅でニ、參時間寒い目にあって漸く汽車にのると十分位でマルツワ駅に着くが、此處に来ると高台になってゐるので、街の方より、參度は気温が低い。器材を受領すると仕事を教わって直ちにかかる。仕事してゐる間が寒くなくて極楽だ。保温の為の勞働だ。
參時半頃作業終了すると晝飯になる。パン二百五十瓦にスープ椀一杯だ。寒いとき食堂で食べるのだから暖かいが參百人が狭い食堂で食べるんだから食うか食わぬ中に外に出される。
全員食事を終わると汽車に乗って歸るのだが、その汽車が四時に来なければならぬのが六時迄七時迄も来ないことが普通だった。その間朝と同じく寒い目に逢って待って居なければならぬ。
雪除作業は作業そのものよりも汽車を待ったりする時間が永くて、火の気もない線路界隈で一時間も二時間も零下二〇度位の冷たさと戦わねばならぬから仕事よりも余程えらかった。靴が終戦時に履いたままの品だから悪くなって満足な奴はないのだ。一寸雪の上を歩くと靴下がじゅっくり湿りけを持って来る。
凍傷の経験のない者等大分凍傷にやられた。一寸そっとの凍傷や怪我ではやっぱり作業に引張り出されるんで可哀いさうだ。腹をこはしてゐても無理矢理引張り出されて冷たさに逢ふので、いつまでも腹の病気は治らず、益々ひどくなって栄養失調になって了ふのだ。
ハイラルの冬期演習が寒いと云って居たが、其の時は精神的に條件が違ふし、栄養方面より云っても又然り。それでも朝から兵舎を出て夕方まで全然火に當らず外にばかりゐる事はなかったから瞬間的に寒かったかも知れないが、今度ほど寒さは耐えなかったのだ。然るに捕虜生活に於ては前期の條件につけて加えて被服不完全ときてゐるから尚更甚しく寒く身に感じた譯である。

マルツワ駅の構内作業中の面白かった事は、線路と線路の間の氷を十字鍬や鉄棒の尖った奴で砕いて居る時、直ぐ横の箱貨車から子供が盛んにかっぱらってゐる。時々銃を持って監視員が廻って来ると、いつの間にか居なくなる。ハテナ何だらうと仕事し乍ら注意してゐると又子供が取りに来た。どうも食物らしい。貨車の壁をはづして、手突っ込んで取り出してゐる子供が逃げて行った。
自分の班の○○君、あたりを監視し乍ら件の穴のところに近寄り一つ大きいのを取り出して持って来た。大豆粕のような未だ目の細かい黒味が買ったレコード位の丸い板だ。みんなで食べものなら食ってみろと、少しづつ食ってみると香ばしくてうまい。実に噛みでがある。落着いてよく見ると日廻りの実の絞り粕だ。
一つ食って味食ひ出したので、それぢゃと又○○君や□□君とレコード位の丸いやつを十枚位運び出した。仕事の最中なので、その品物の分散秘匿に苦心する。ロスケに見つかったら最後、刑法に引っかかるかも知れんのだ。仕事し乍ら細かく割ったやつを一日中噛ぢってゐた。歸りには腹の中にかくすやら防寒帽に入れるやら大事(おおごと)して収容所にもって歸った。
あとで判ったがひまはりの種圧搾で丸い奴一枚は四、五十円する相だ。他の戦友に少しずつ分配したが、大体食糧不足の折とてみんなうまいうまいと云って食った。自分等は飯食ふ時以外は暇さへあれば之を食ってばかり居たので、此の色と同じ色の糞が出るようになり、後で下痢して了った。

雪除作業も參月になって雪がとけ始めるころ出田作業班はオスム11と云うところの製材工場にやられた。此處の貨車引込線に満載した貨車が入って来るとそれを八名で片側に却下する。直径參、四十糎の松丸太が主だ。長さは二間乃至參間ある。一回に十台近くも入って来ると降ろした奴を今度整理するのに大変だ。引込線より四十米位離れて之に平行してトロッコが敷いてある。此處で松丸太を積んで製材工場へ押し込むのだ。トロッコ積込の準備の為にトロッコの線路の傍ら迄貨車より降ろした材木を轉がして積む易い様に枕木を置いて奇麗に積み上げて置かねばならぬ。
自分の班は、雨谷、山根、山本、赤澤と強力ばかり揃ってゐる。其の他小海、川西、三本と之亦力も強いが頭のいい者ばかりだった。都合八名だ。朝、監督が、これだけやったら何時にでも終わり次第に歸ってもよいと断言したので、全力を振って午後一時にやり上げた。監督も之には全く驚いて、歸すとは云ふたものの勞働八時間で四時になってから歸さないと収容所から叱られると云うで、木工場で四時まで遊ばして呉れた。
我々も約束は実行して呉れなかったが、別に仕事には使はれなかったので、此處の監督ならば、一寸頑張ってやらうと云う気が起こった。ナァニ大抵の監督ならばやれと云っただけの量の仕事を終ると欲が出て余分にやらせようとするのだ。そこでわが作業班はよく働く作業班だと監督も感心しただろうし、我々も亦この監督はええ監督だと(いう)感じになった。之から優良作業班の中に出田班が乗る様になったのだ。
參月に入ったものの時々雪に降られて材木に積もって居るのを払ひのけ乍ら重い奴をローム(脚注:ロームとは「カナテコ」のこと)でヤッサコラサで汗びっしょりで動かした。
監督はすっかり信用して了って、どんなに休憩してる時に来ようとも、ダバイ一言云はないで反対にパピロス(脚注:パピロスは口付タバコ)一本呉れて行く。こんなに煙草呉れるなら遊んでばかり居たんでは気の毒だと余分な仕事迄やり上げてしまう様な調子。
之が之迄に我々が使われた監督の場合だったら、休憩でもして居やうものなら、ダバイダバイと尻を追い立てる。煙草は呉れと云っても無いと云って呉れない。だからどうせロシヤの為にしかならんのだ。余りやるなといった具合で誰も居なくなったら休んでばかり、仕事は少しも能率上がらない。
特に捕虜なんか気の抜けた人形みたいなもんだ。それで居て自分の口が肥えるとなりゃ欲が出て働く。其處を狙って使へば何處の国の捕虜だってよく働くだらう。只働け働け、働かんと飯食わせんぞ、ではいい働きは出来んのである。それは、我々の経験からして断言できる。木工場の現監督は作業班長としての意見は実によく聞いて呉れた。こんな人が本當に民主的な人だらう。

材木整理が済んだころ、次の引込線の線路工夫をやらされた。子供の頃線路で工夫が大きなつるはしを大きく振り上げてのんびり打ち降ろしてゐるのをよく見て居たが、自分で枕木を入れて砂利石を入れて泥や砂を入れ搗き固めてみると何があんなにゆっくりやっているのかがよく判った。一日に二人一組で五本位入れ換へて居た様だ。
二十二年の參月末には木工場から飛行機工場の製材工場に廻されたが、木工場の監督が俺のところは出田班でなくてはいかん、と収容所に申し込んで、又木工場に引き戻して呉れた。

5月か6月になってどうしても其處を止めなければならぬ事になり、煉瓦工場の釜出しに廻された。之は未だ焼き立ての暑い釜の中に入り、素手では一寸握れない煉瓦を手袋で運び出し、自動車に積み込む仕事だ。暑い手の焼けるようなのを二つづつ手送りして一輪車に積み、鉄板のレールの上を押して表の自動車の下迄運び、それを自動車に積む。八名で一日一萬枚位煉瓦を積み込んで百參十%を貰ふ譯だ。
釜は未だ石炭殻が一杯で、煉瓦の赤い粉と灰でもの凄いゴミホコリが充満。それに温度が高いので、汗に流れて汚れること汚れること。此處の中に日光でも差し込もうものなら、凄いホコリで防毒面でもつけなくては入る気しない位の非衛生ブリだ。此の悪い作業を二ヶ月も毎日々々やらされて最後には熱發する様になった。炭殻から發生する瓦斯に相當やられて頭が痛むのが屢々だった。熱發して診断受ける度に、作業場が悪いから交代さしてくれ、とロスケにも交渉したが、なかなか止めさして呉れなかった。

煉瓦工場も満ニヶ月位やらされて漸くのこと開放された。此の作業場に於いても我が班が断然光って居た。他の作業班が来ても我々の半分位しか出せないのだ。此處の監督が交代しちゃいかんと盛んに引き止めていた譯だ。二十分も自動車一台にかかるところ十分位で軽く出して積んで了ふんだ。
此の次にやったのが自動車に石炭、砂、鉄材、木材等の積載却下作業。之は一台に二、參、名づゝ分乗。街へ出られるのでいろいろの役得もあり、非常に面白く一日が短い作業だった。面白いところはあとで記す。

二十參年になって、始めて月給を百五十円も貰えるところのアンドレーバー工場(製鉄)に通うことになった。二年間も働いて合計二百円しか月給というやつは手にして居なかった。
此處の仕事は重勞働で線路、枕木交換、ナマコ整理、運搬、鋳物工場、溶鉱炉に入れる古地金の整理等いろいろあった。冬の一番寒い時なんで鉄いぢりの冷たいこと。まあ月給楽しみに頑張っているから續くんだが、之がなかった(ら)到底かなはんだらう。
此の工場には參百人位の同僚が働いて居たんだが、五、六十名の班長やらされて、人員の区署、仕事の割當等やらされて心身ともに相當くたびれた。月末になって熱にやられて遂に三日休み。おまけに二十八日付けで弱体者の組に入れられてあとを續けなかったので夢見て居た百五十円の俸給もオヂャンになって了った。
弱体者で三月四月と丸々二ヶ月仕事もなしで遊ばして呉れたので漸く五月になって再起。第二グループと軽勞働に服することになり、旋盤工場の掃除をやらせられた。
以上で自分のやったラボータは終わり、其の他は煉瓦工、之は一日千枚位積んで始めて一人前だ。

最初は之に従事したものは五百枚位しか積めず、相當パーセントで苦しめられて居た。それに鋳物製品のグラインダー仕上げ作業、電気溶接、大工、壁塗り、電気工等あらゆる仕事があった。土方の穴掘りが一日の仕事量が參立方米の大きさの穴を掘って漸く百%だ。それが穴掘りの仕事にしてもロスケの頭は固く融通が利かぬから、どんなに固い地面でも畠の様な柔らかい地面でも、やっぱり同じ仕事量を完遂せねばならない。煉瓦について居るセメントを落として又使用されるようにする作業が一人一日積み上げて一立方米で百パーセントだった。


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人の使い方、組織の動かし方、勉強になります。当時の月給150円が、どの程度の価値があったのかわかりませんが、月給があったことはちょっと意外な気もします。ただ、正当な対価ではなかったのはわかります。

2014年9月6日土曜日

その4 ロシア語

4.ロシヤ語

在鮮当時より幾らか勉強してゐたのたが、なかなか上手にならない。列車中のドーナット、ピーナットの点呼やら、ダバァイダバァイ等チンプンカンプン判らなかったが、いざ工場に出る様になるとロスケと接觸する関係上どうしても覺えざるを得なくなってきた。
それ迄はノートに日本語で書いてこれを讀んではロシヤ語では何と云ふ、と覚えてゐたのだが、仕事場ではいろいろな言葉を聞いては、あれは何の事だらうと云った具合で覚えるんだから、割に早い発音も近い発音ができる。数字が一から十迄覚えるのに苦労した。現在では数字だけは千以下だったら自由に云へる様になったが、列車中でドーナツとかピーナツとか聞こへていたのも無理ないと思った。朝晩の挨拶、食物の名前とかを一番先に覚える。その次に聞くのが「今何時ですか」と云ふ事だ。此の問に対しての返事を判る様になる迄約一年位要した。時間は食物の次に、作業時間に関係あるから必要なのだ。
工場等の休憩時間を利用してロスケと話すんだが、最初は手まね足まね、まるで唖と同じだ。指さしてみて、ポロスキーでは、と聞き、それによって覚へる。ロスケの方も日本人が珍しいから、お早う、とか、サヨナラ、と日常会話の単語を聞いて面白がってゐる。
言葉のことで面白かった事は、馬車を操ってゐた○○君が、所長の自宅に用事で行って、奥さんより、明日は畠を耕しに行くから馬車に馬糧を準備して午前中に来て呉れ、と云はれたのを早判して、馬車に馬糞を一杯積んで所長宅に行ったとの事。そしたら、馬糧を積んでくると思ってた奥さんが、馬糞を一杯積んで来られて面食らったとか。
そう云った笑い話はカタコト交りしか喋れない我々には仕事の上ではちょいちょいだ。気のいゝロスケだったら笑話で治るが、立の悪いのに引っかゝったらブンなぐられる。
ロスケは一番先にチンポ、オマンコとかバカヤロとか云ふ言葉を覚えた。街なんかを通る子供が意味を知ってか知らんでは、ヤポン、バンザイと呼びかける。どう意味かロスケには聞いてもみなかったが、日本が今度無條件降服したことをさして輕ベツの意味らしかった。
我々が早く覚えた言葉は前に挙げたのもあるが、ヨッポイマーチ(馬鹿野郎。支那語の「マーラガピイ」と同じ)がある。之は仕事をやり損ったりすると直ぐロスケが口ぐせの様に使ふ言葉だ。また、我々がそれを使っても大して怒りもしない。

我々が聞いて一番感じの悪かった言葉は何と云っても、ダバァイだ。之は、ヤレと言ふ意味が一番多いだらう。仕事などしてゐる時、ちょっと捗らなかったり、休んだりしてゐると直ぐロスケが来て、ダバァイ、ダバァイと追ひ立てゝ仕事やらせる。之だけ朝鮮以来よく使はれて鍛はれてゐるので之を聞くと仕事もしたくなくなる。


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アジン、ドバー、ツリー、チティーリ・・・・、スパシーバ、オーチンハラショー・・・。今でも、私たちが子供のころに父から聞いた、これらのロシア語は、よく覚えています。中でも、上記のように、数の数え方は苦労して覚えたこともあって、よく話をしていました。

文中に「ポロスキーでは」というのが出てきますが、よくわかりません。「ポーランド語ではどう言うの?」という意味かとも思いますが、不明です。
ロシア人のことをロスケと呼んでいますが、ロシア語でロシア語、ロシア人のことをロスキーということから、「露助」というふうにあてて云っていたのだと思います。