2014年10月24日金曜日

その11 煙草、その12 酒

11.煙草

先にも書いたが、煙草程ゆったりした気分になれるものはなかった。家族全部揃って夕食でもたらふく食ったらゆったりでもしやうが、食事はお粥を少し食ってる身には腹も減り通しで、煙草でも喫はなくちゃやりきれないのだ。ところが、それを買う金がない。
最初はチッソ製の洗濯石鹸と交換したり、萬年筆(ルーチカ)、時計(チャースイ)、バンド、ハンカチ等を出してそれに相當の量の煙草と交換(ドラゴイ)するのだ。自分も時計、萬年筆、財布と殆ど煙になって了った。
それを喫って了ってなくなると、配給になる石鹸を四、五円に売って、マホリカと云ふ奴をコップ一杯買って喫った。そして又それも足らなくなると吸殻拾ひだ。ロスケに煙草を呉れと云えば呉れるには呉れるが、何時も何時もは貰えぬので、拾ふに限る。
然しロシヤでは両切りは余りないのである。ハピロスと云って口付煙草。之は吸口が内地の奴よりウンと長いので、之は殆ど最後迄吸ったって口が熱くならぬので、落ちてゐるのも煙草が少しでも残ってゐるのは稀にしかない。そんな時には東京の電車の停留所等を思ひ出した。日本では勿体ないことをしてゐたもんだと。
パピロスの他にマホリカと云ふ品である。之は煙草を(?)人が乾かして茎も葉も一緒に細かく刻んだだけの代物だ。之が勞働大衆向けの煙草で、大半の人が新聞で手巻きにして唾液で糊付けして喫うのである。我々も最後には巻き方がロスケ並になってゐた。マホリカも非常に美味いのがあって、パピロスよりいゝ様に思ってゐたが、今度内地の煙草を吸ひ出してから一服喫んだけれど喫へぬ程まづかった。


12.酒

収容所内にはアルコール類は持入嚴禁になってゐるので余りにも縁が遠すぎた。
ロスケはメーデー、革命記念日にはレーニンやスターリンの像を街に掲げ、酒(ウォッカ)をのんで唄ったり躍ったりしてゐた様だ。この様な特別な日には酔っぱらひも見られるが、普通の日には日本程みられない。元来酒には強い関係もあるだらう。又、或る方面から云へば何時も酒なんか飲んで酔っ払う余祐がないのだらう。
ウォッカなるものは相當強い酒と聞いてゐたが、タガノロフで飲んだのは日本の焼酎位だったと思ってゐる。自動車の仕事をしてゐる時、運チャンとともに闇をやったので我々にもビールを一杯飲まして呉れた。一杯六円五十銭だ。余りにがみもない、我々が上海の兵舎で飲んでた様な小便ビールだ。然し其の時は一、二年も禁酒してゐた時の事とて、実に内地を思い出した。ニュートウキョウ、銀座ミュンヘンで、そら豆のさかなでボーナスをはたいた事など。

たった半立(リットル)のビールだったけど、直ぐに砂を貨車に積んでガタガタ揺られたので非常によくきけて、収容所に歸り着くまでポーッとした一杯機嫌だった。


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口つき煙草といえば、昔、夏目漱石の「吾輩は猫である」が映画化され、その映画の中で、漱石愛用のタバコといわれていた口つき煙草の「朝日」が登場します。(「口」のところをペッタンとつぶしたたくさんの吸い殻が火鉢の灰の中に突き刺してあるシーンが印象的でした。)当時学生だった私は友人は、映画に影響され、まだ販売されていた「朝日」をしばらく愛用していました。
http://blog.livedoor.jp/naturococo/archives/1602668.html

父がボーナスをはたいたという銀座ミュンヘン(銀座8丁目)はもうありませんが、ニュートーキョーはビアホールとして今も有楽町にあります。(今度行ってみます。)

2014年10月19日日曜日

その10 月給

10.月給

俘虜には煙草銭になる位の月給は支給されると聞いてゐたので、タガノロフ市で、一、二ヶ月も働けば少し位貰へるだろうと思ってゐたら、何時になっても呉れない。千名も働いているのに月給を貰へたのはパーセントの非常にいい仕事場に行って居るものばかりだ。こちとらは指食わえて恨めしそうに眺めるだけだ。そして其の儘の仕事を續けたら生涯一文にも有りつけないだらうと思ふと仕事するのも厭になって了った。

入ソ後一年にもなるのに一銭も貰へない者、毎月々々貰っている物、千名中半分半分よりまだ一寸ひどかった。民主運動が盛んになるにつれて皆の声が此の様な状態ではいけない。余りにも不公平だ。
同じ仕事をやって片方が成績悪くて月給貰えぬと云ふのなら諦めもするが、奇麗な余り体力を要しない作業が楽をして月給を貰い、土方とか重勞働の方がえらい目に逢ひ乍ら一銭も貰へないと云ふんだから、之は交渉して職場の変更をやって貰わなくちゃ叶わんと云ふことになった。
ロスケはそんなに職場を交代すれば能率が上がらんから駄目ぢゃ、と断られた。それぢゃロスケは日本人の一人々々は顔迄知らんのだから、無断で少しずつ交代させようと云ふことになった。然し之も現場の監督がちゃーんと知ってゐて具合が悪い。

最後には月給を貰った者が出し合わせて、其の幾らかを貰わぬ者に廻してやろうと云ふことになった。貰ふ奴は一人で百五十円も貰ふし、貰はぬ者から言わすりゃ飛んでもない話さ。皆の気持ちが大して多く貰はうとは思ってないが、毎日煙草を十分喫へるだけの金を貰えばハラショーである。それならばその為には幾らか要るか。二、參十円でいゝのである。捕虜の身で、勞役に服してゐる者にとっては、食物は勿論だが煙草が一番の慰安だらう。所持品のロスケが好むような品はみんな煙草に化けて煙になってゆく。色気なんて「願っても到底」と、てんで諦めてゐるから。
それで中隊で二百五十名の中で半分か參分の一の人員が、月給を貰ったら一割ずつか二割か出し合わせて貰わない人に頭別けすることに決議した。これも相當の反対者があったが、お互に日本人ぢゃないか、今迄戦友として同じ釜の飯食って苦楽をして来た者が、君は貰った、俺は貰はんと両方からひがみ合ってゐたんではこれからの苦しい生活はやって行かれんぢゃないか、と云ふことになって丸く話がついた次第。

ロスケは何の為に同じように月給を渡さないかと云ふと、千名の中に何名かに月給を出せば、他の貰はぬ者がよく働くと月給を貰へる、よし、ぢゃ俺も大いに働かう、と言う風になることを願ってゐるのだ。ところが、我々から云わすりゃ、精一杯働いても一銭も貰へん、之より以上働け、なんて云ったって要求通り出来ないんだから仕様がないぢゃないか。前に述べた給與でも全く同然だ。パーセントの良い者には余計食はせるし、悪いところは定量以下に主食を減らすんだから、やり方が辛らつだ。

結局在ソ中に貰った自分の給料は二、三十円づつ五回位だけだ。一九四八年二月は百五十円も貰へる職場に居たので、今度こそはと張切っていたところ、弱体者に廻され月末二、參日休んだので、遂に之又貰ひ損なった。毎日の単價を出場日数で掛ければ、収容所の経費を差引いても結構七十円位は貰えることになってゐたんだが、ロスケの作業主任が一人一月4回の休暇を取って良いが、それ以上休むと病気の場合でも月給は支給しないと言ひ出したからせっかくの夢も破れた譯。毎月々々百五十円位ずつ貰ってゐた者を思へば、在ソ中には余り金には恵まれた方ではなかった。

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先日、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑秋季慰霊祭に参列する機会を得ました。千鳥ヶ淵墓苑には、シベリア抑留中に亡くなられた方の遺骨も納められているとのこと。前回の「負傷」で書かれている亡くなられた方のご遺骨もあろうかと思いながら、あらためてご冥福をお祈りしてきました。

私も、この手記を読むまで、シベリア抑留 = 強制労働というふうに理解していたので、給料というと意外でしたが、果たして、あくまで仕事をさせるためのニンジンだったわけですね。
日本兵は、まとまって、助け合い、防衛策を講じる。恐るべし日本兵!

※昭和22年の大卒初任給が200~300円、23年はさらに上がっているようです。当時のソ連国内の物価水準がわからないので、150円あるいは20、30円というのがどれほどの価値だったのでしょうか。

2014年10月11日土曜日

その9 負傷

9.負傷

俘虜生活中に遭った負傷の中で第一番の惨事は何と云っても興南波止場に於て貨物船に米をグレーンで積載中、ワイヤーが切れて米俵二十五俵が纏った儘戦友五名の頭の上に落下した時の事だ。引込線にある貨車から十名位で米を一表つゝ擔いでグレーンの下に擴げた網に二十五俵積み、それをグレーンで巻上げて船倉に運ぶ作業をやってゐる時だった。

自分が俵を網の中に落として列べてゐる時、ヅシンと地響きがした。ビックリしてふり向くと、たった今グレーンで巻上げたばかりの二十五俵が、ワイヤーが切れて線路の横の頂度貨車の扉の前に落ちてゐる。
側に立ってゐた者も只ボーッと気抜けしたような驚きで眼をみはってゐたら、「誰か下に居るぞ。直ぐ俵をはねろ」と云ふ声にハッとして我に返って、俵をのけると四人か五人下敷きになってゐる。最後の一俵をのける時に、一人の目、鼻、口、耳から血が吹き出し始めた。顔がペシャンコだ。死。駄目だと直感。
他の四人を現場より引き出してみると、橋本兵長は両足ともブランブランで、立つも歩きも出来ない。西村君はかすかな声で、只イタイイタイとうなるだけで、他は血一つ流してゐない。米川君は防寒帽の下から血が流れてゐる。帽子を脱ぐと耳の後を切って居た。

昔の軍隊なら直ぐ救急車どころだが、ロスケの監督下故、直ぐに自動車もよこさず仲々医者の手も廻らない。まどろっこくて仕様がなかった。
一時間位して自動車が来た。即死してゐる島田君。両足ブランブランの橋本君。多分内出血の西村。頭部負傷の米川君と応急の擔架により自動車に積み込み入院させた。後ほど話に依れば島田君は完全に頭部をペシャンコに叩かれ即死。西村君は胸部の内出血で二、參日後死に、橋本君は大腿骨が粉々に折れて了っていたさうで之も又死んでしまった。米川君は俵にはねとばされて貨車の車輪で頭部を打割っただけで血は流れてゐたが助かったさうだ。

以上の様な負傷事故が自分の居た場所より二、參米離れた場所に、ホンの一寸の時間に起きた事件なのだ。尚我々は戦友の生血が流れてゐる現場で後半日を同じ仕事を厭々乍らやらせられたのである。

興南の収容所では馬小屋の仕切りに煉瓦を積み上げてあったが、之にもたれて陽向ボッコしていた兵隊が、馬が暴れた為煉瓦が倒れかかって頭より打ちかぶさり、重傷を負って入院したが翌日死亡した。解剖の結果腸壁に穴があいて出血してゐたそうだ。

タガノロフ市では三十名位の人員が、トラックで作業送り迎への時、貨車の側板が進行中に開いて十名位ひっくり返り、一人だけ後輪に轢かれて死亡。貨車に便乗の場合は側板や後板に大いに気をつけねばならない。絶対に腰掛けることは禁もつだ。

格納庫の煉瓦積中、天井より煉瓦が落ちかかって頭を打割った者が十名位、壁塗り中足場が落ちて負傷した者も大分居る。この中で鈴木と云ふ人は神経衰弱になり遂に首下がりまで敢行した。余談だが、此の時ロスケの若い美しい看護婦が、妻も子供もさぞかし歸国を待ってゐるだろうにと涙流してゐた。マンホールで背丈以上も地下に入って作業中の[]長は頭上より頭位の大石が轉がり落ちて足に當り、防寒靴の上より、小指を切断し、片輪になって了った。

第二中退の兵隊は飛行場で土工作業中、土の中に小銃実砲が埋まってゐた為、之をつるはしで知らずに打降ろしたので、破裂し銃弾が左眼を打ち抜いて、上頭部より飛び出し片目になって了った。助かって不幸中の幸だったが、病院に入院中、うわ言の様に俺は片目になってでも良いから内地に生きて歸りたいと云ってゐたそうだ。全く我々はそんなにまで歸りたかったのだ。
栄養失調で亡くなったのは、一日に十何回も下痢し熱は三八、九度、三日と経たぬ中に目はくぼみ頬は落ちて、その儘眠るがごとく死んで了ふ。

其の他天井から落ちたもの等小さな怪我は一寸数へ切れないほど澤山ある。自分の怪我は煉瓦工場に仕事中、煉瓦が足に落ちかかり拇指の生爪をはがしたり、手の生爪はがしたり、木材運搬中に取落し足の上に落ちて一週間以上もびっこになったり、生命にかかはる如き怪我は余りなかった。

自分が作業班長やってゐる以上、お互い怪我には十分注意してゐたから。鉄道の台車より一寸巾の長さ五、六米のアングルを却下する時は、アングルに跳ねられバラバラに降ろしたばかりのところへ、かへりこけたこともあった。落ちさうになった時、之は駄目だとばかり自分で飛び降りたが、足場が悪かった為仰向けに倒れ背中を少し擦ったくらいで止まって幸いだった。

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さる9月22日頃の新聞で、シベリア抑留中の都道府県別の死亡者数が掲載されていましたが、このデータは旧ソ連の公文書をもとに整理されたものです。
このデータでは、父がいたタガンログ収容所での死亡者は、7名ということになっています。

本文中に出てくる、鈴木という名前が出てきますが、果たしてこの鈴木貞次さんという方かどうかはわかりません。

全体では1割程度が亡くなったといわれていますが、タガンログの収容所が1000人規模だったことからすると、良好な環境だったように思えますが、どうも、これだけではないようです。

この佐藤さんの証言(ページの下の方に出てきます)のように、名簿にはない方々が亡くなっておられるようなので、旧ソ連のもともとの名簿自体が正確ではないものと思われます。

父の手記では、亡くなった方の記述はこの部分だけですが、生前、「現地ではずいぶん亡くなったのか?」と聞くと「半分になって帰ってきた。」と聞いたように思います。何の半分だったのか、ということもわかりません。

また、最初に出てくる「興南」は、ソ連国境に近い北朝鮮の港町と思われますが、そこで亡くなった方たちは入ソ前のことなので、どのように報告されているのでしょうか。

2014年10月5日日曜日

その8 給與

8.給與

[給與」とありますが、給食、食事のことです] 


 ロスケの常食が黒パンである。我々は常食たる米飯にも有りつけなくなった。入ソ當時は米穀少量と高粱、燕麦、ジャガイモ等だった。魚、肉等全然なく又新鮮なる野菜もなし。ポゼットに上陸より一週間にしてポツポツ鳥目患者が出来始めた。自分もその一人だった。
晝間でさへ急に蔭に入ればさっぱりみえない。これも魚や肉類不足でヴィタミンA不足現象。鶏と同じで朝起きて夕方迄自由に動けて夕刻よりさっぱり目盲になって不自由でならない。電燈は見えるがそれより眼をそらすと今まで見て居た電球のゲン影だけが白く浮かび上がり他は何にもみえない。

興南やポゼットでは便所が遠くて夜起きた場合眼がみえず、子供みたいにたれ流しやったものが幾人かあった。又便所の中に足つっ込んだ者も居た。本當に今考えると可笑しい様にしか思へないが、其の時は実に眞剣だったのである。

タガノロフ市到着當時は麦粥を澤山食はして貰った。ところが、みんな列車輸送の二十五日間の疲勞と暑さの為に衰弱して幾らも食べなかった。食い馴れないせいもあったらう。之をみたロスケが量をウンと減らして来た。一日の穀物の量が四〇〇瓦となってゐるさうだが、二〇〇瓦位あったらうか。それに本式に作業に引っ張り出されるようになって益々量が足らなくなって来た。

毎日々々空腹の連續である。大根の生、人參、カボチャ、玉葱、ジャガイモ、野菜の生は云ふに及ばず、アカザ、タンポポ、野生のゴボウ等生の儘か塩つけてかぢった。大根は甜菜だから甘い。人參は柿の様な気がするし、カボチャも同じ。馬鈴薯は梨の様な気がして食った。魚も炊事から貰ふのは生で骨までバラバラにして猫も見向きもしない程奇麗に食ったのだった。

この様な場合は年のことも身分のことも色気も全然無くなって了ひ、只ひたすらに食いさえすればいいのだ。腹を壊すことなんぞ考へる暇はない。無茶苦茶食っている奴に栄養失調で死んで了ふぞと云はうものなら、之だけ食って死ぬのなら本望だと云ふだらう。
之だけ徹底してゐたからか、自分も相當生のまゝ食ったが、めったに腹だけはこわさなかった。蛇なんかは作業中に監督の眼を逃れて奇麗に皮をはぎ、針金に蚊取線香の様に巻いて、突刺し歸ってから入浴場の釜で良く焼いて食ってゐた。唐もろこしの若い柔らかい奴は一日に最高で三、四〇本は食ったらうか。それでも腹は自身たっぷりだった。


昔から「武士は食はねど高楊子」と云ふ文句があったが、こんな諺なんかてんで信じられなくなって、腹が減っては戦が出来ぬ、というのが本當の様な気がした。(然し、終戦前の上海飛行場での空襲時は気が張って空腹も感じなかったが。)兎に角我々は「人間が窮して来れば如何なる粗食にも如何なる小食にも耐え得られ、その上に精神力が充実すれば相當の期間之に抗抵出来得る」自信を持ったのだ。之は確かな収穫かも知れない。


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父は、生前、抑留中は「とにかく飢えていた。食えるものは何でも食った」、という話をよくしていました。なので、帰国し実家に戻り、「砂糖をバケツ一杯なめた」とか。
貧しい食事のおかげで、栄養失調となり、命を落とした人もいたのではないかと思われます。

また、最近ではすっかり死語となっていますが、「鳥目」というのも私たちが子供のころまでは、「偏食してると鳥目になる」とよく脅かされていました。便所に足を突っ込むくらいならいいですが、環境によっては、命にかかわりますね。