2014年10月11日土曜日

その9 負傷

9.負傷

俘虜生活中に遭った負傷の中で第一番の惨事は何と云っても興南波止場に於て貨物船に米をグレーンで積載中、ワイヤーが切れて米俵二十五俵が纏った儘戦友五名の頭の上に落下した時の事だ。引込線にある貨車から十名位で米を一表つゝ擔いでグレーンの下に擴げた網に二十五俵積み、それをグレーンで巻上げて船倉に運ぶ作業をやってゐる時だった。

自分が俵を網の中に落として列べてゐる時、ヅシンと地響きがした。ビックリしてふり向くと、たった今グレーンで巻上げたばかりの二十五俵が、ワイヤーが切れて線路の横の頂度貨車の扉の前に落ちてゐる。
側に立ってゐた者も只ボーッと気抜けしたような驚きで眼をみはってゐたら、「誰か下に居るぞ。直ぐ俵をはねろ」と云ふ声にハッとして我に返って、俵をのけると四人か五人下敷きになってゐる。最後の一俵をのける時に、一人の目、鼻、口、耳から血が吹き出し始めた。顔がペシャンコだ。死。駄目だと直感。
他の四人を現場より引き出してみると、橋本兵長は両足ともブランブランで、立つも歩きも出来ない。西村君はかすかな声で、只イタイイタイとうなるだけで、他は血一つ流してゐない。米川君は防寒帽の下から血が流れてゐる。帽子を脱ぐと耳の後を切って居た。

昔の軍隊なら直ぐ救急車どころだが、ロスケの監督下故、直ぐに自動車もよこさず仲々医者の手も廻らない。まどろっこくて仕様がなかった。
一時間位して自動車が来た。即死してゐる島田君。両足ブランブランの橋本君。多分内出血の西村。頭部負傷の米川君と応急の擔架により自動車に積み込み入院させた。後ほど話に依れば島田君は完全に頭部をペシャンコに叩かれ即死。西村君は胸部の内出血で二、參日後死に、橋本君は大腿骨が粉々に折れて了っていたさうで之も又死んでしまった。米川君は俵にはねとばされて貨車の車輪で頭部を打割っただけで血は流れてゐたが助かったさうだ。

以上の様な負傷事故が自分の居た場所より二、參米離れた場所に、ホンの一寸の時間に起きた事件なのだ。尚我々は戦友の生血が流れてゐる現場で後半日を同じ仕事を厭々乍らやらせられたのである。

興南の収容所では馬小屋の仕切りに煉瓦を積み上げてあったが、之にもたれて陽向ボッコしていた兵隊が、馬が暴れた為煉瓦が倒れかかって頭より打ちかぶさり、重傷を負って入院したが翌日死亡した。解剖の結果腸壁に穴があいて出血してゐたそうだ。

タガノロフ市では三十名位の人員が、トラックで作業送り迎への時、貨車の側板が進行中に開いて十名位ひっくり返り、一人だけ後輪に轢かれて死亡。貨車に便乗の場合は側板や後板に大いに気をつけねばならない。絶対に腰掛けることは禁もつだ。

格納庫の煉瓦積中、天井より煉瓦が落ちかかって頭を打割った者が十名位、壁塗り中足場が落ちて負傷した者も大分居る。この中で鈴木と云ふ人は神経衰弱になり遂に首下がりまで敢行した。余談だが、此の時ロスケの若い美しい看護婦が、妻も子供もさぞかし歸国を待ってゐるだろうにと涙流してゐた。マンホールで背丈以上も地下に入って作業中の[]長は頭上より頭位の大石が轉がり落ちて足に當り、防寒靴の上より、小指を切断し、片輪になって了った。

第二中退の兵隊は飛行場で土工作業中、土の中に小銃実砲が埋まってゐた為、之をつるはしで知らずに打降ろしたので、破裂し銃弾が左眼を打ち抜いて、上頭部より飛び出し片目になって了った。助かって不幸中の幸だったが、病院に入院中、うわ言の様に俺は片目になってでも良いから内地に生きて歸りたいと云ってゐたそうだ。全く我々はそんなにまで歸りたかったのだ。
栄養失調で亡くなったのは、一日に十何回も下痢し熱は三八、九度、三日と経たぬ中に目はくぼみ頬は落ちて、その儘眠るがごとく死んで了ふ。

其の他天井から落ちたもの等小さな怪我は一寸数へ切れないほど澤山ある。自分の怪我は煉瓦工場に仕事中、煉瓦が足に落ちかかり拇指の生爪をはがしたり、手の生爪はがしたり、木材運搬中に取落し足の上に落ちて一週間以上もびっこになったり、生命にかかはる如き怪我は余りなかった。

自分が作業班長やってゐる以上、お互い怪我には十分注意してゐたから。鉄道の台車より一寸巾の長さ五、六米のアングルを却下する時は、アングルに跳ねられバラバラに降ろしたばかりのところへ、かへりこけたこともあった。落ちさうになった時、之は駄目だとばかり自分で飛び降りたが、足場が悪かった為仰向けに倒れ背中を少し擦ったくらいで止まって幸いだった。

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さる9月22日頃の新聞で、シベリア抑留中の都道府県別の死亡者数が掲載されていましたが、このデータは旧ソ連の公文書をもとに整理されたものです。
このデータでは、父がいたタガンログ収容所での死亡者は、7名ということになっています。

本文中に出てくる、鈴木という名前が出てきますが、果たしてこの鈴木貞次さんという方かどうかはわかりません。

全体では1割程度が亡くなったといわれていますが、タガンログの収容所が1000人規模だったことからすると、良好な環境だったように思えますが、どうも、これだけではないようです。

この佐藤さんの証言(ページの下の方に出てきます)のように、名簿にはない方々が亡くなっておられるようなので、旧ソ連のもともとの名簿自体が正確ではないものと思われます。

父の手記では、亡くなった方の記述はこの部分だけですが、生前、「現地ではずいぶん亡くなったのか?」と聞くと「半分になって帰ってきた。」と聞いたように思います。何の半分だったのか、ということもわかりません。

また、最初に出てくる「興南」は、ソ連国境に近い北朝鮮の港町と思われますが、そこで亡くなった方たちは入ソ前のことなので、どのように報告されているのでしょうか。

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