2014年10月19日日曜日

その10 月給

10.月給

俘虜には煙草銭になる位の月給は支給されると聞いてゐたので、タガノロフ市で、一、二ヶ月も働けば少し位貰へるだろうと思ってゐたら、何時になっても呉れない。千名も働いているのに月給を貰へたのはパーセントの非常にいい仕事場に行って居るものばかりだ。こちとらは指食わえて恨めしそうに眺めるだけだ。そして其の儘の仕事を續けたら生涯一文にも有りつけないだらうと思ふと仕事するのも厭になって了った。

入ソ後一年にもなるのに一銭も貰へない者、毎月々々貰っている物、千名中半分半分よりまだ一寸ひどかった。民主運動が盛んになるにつれて皆の声が此の様な状態ではいけない。余りにも不公平だ。
同じ仕事をやって片方が成績悪くて月給貰えぬと云ふのなら諦めもするが、奇麗な余り体力を要しない作業が楽をして月給を貰い、土方とか重勞働の方がえらい目に逢ひ乍ら一銭も貰へないと云ふんだから、之は交渉して職場の変更をやって貰わなくちゃ叶わんと云ふことになった。
ロスケはそんなに職場を交代すれば能率が上がらんから駄目ぢゃ、と断られた。それぢゃロスケは日本人の一人々々は顔迄知らんのだから、無断で少しずつ交代させようと云ふことになった。然し之も現場の監督がちゃーんと知ってゐて具合が悪い。

最後には月給を貰った者が出し合わせて、其の幾らかを貰わぬ者に廻してやろうと云ふことになった。貰ふ奴は一人で百五十円も貰ふし、貰はぬ者から言わすりゃ飛んでもない話さ。皆の気持ちが大して多く貰はうとは思ってないが、毎日煙草を十分喫へるだけの金を貰えばハラショーである。それならばその為には幾らか要るか。二、參十円でいゝのである。捕虜の身で、勞役に服してゐる者にとっては、食物は勿論だが煙草が一番の慰安だらう。所持品のロスケが好むような品はみんな煙草に化けて煙になってゆく。色気なんて「願っても到底」と、てんで諦めてゐるから。
それで中隊で二百五十名の中で半分か參分の一の人員が、月給を貰ったら一割ずつか二割か出し合わせて貰わない人に頭別けすることに決議した。これも相當の反対者があったが、お互に日本人ぢゃないか、今迄戦友として同じ釜の飯食って苦楽をして来た者が、君は貰った、俺は貰はんと両方からひがみ合ってゐたんではこれからの苦しい生活はやって行かれんぢゃないか、と云ふことになって丸く話がついた次第。

ロスケは何の為に同じように月給を渡さないかと云ふと、千名の中に何名かに月給を出せば、他の貰はぬ者がよく働くと月給を貰へる、よし、ぢゃ俺も大いに働かう、と言う風になることを願ってゐるのだ。ところが、我々から云わすりゃ、精一杯働いても一銭も貰へん、之より以上働け、なんて云ったって要求通り出来ないんだから仕様がないぢゃないか。前に述べた給與でも全く同然だ。パーセントの良い者には余計食はせるし、悪いところは定量以下に主食を減らすんだから、やり方が辛らつだ。

結局在ソ中に貰った自分の給料は二、三十円づつ五回位だけだ。一九四八年二月は百五十円も貰へる職場に居たので、今度こそはと張切っていたところ、弱体者に廻され月末二、參日休んだので、遂に之又貰ひ損なった。毎日の単價を出場日数で掛ければ、収容所の経費を差引いても結構七十円位は貰えることになってゐたんだが、ロスケの作業主任が一人一月4回の休暇を取って良いが、それ以上休むと病気の場合でも月給は支給しないと言ひ出したからせっかくの夢も破れた譯。毎月々々百五十円位ずつ貰ってゐた者を思へば、在ソ中には余り金には恵まれた方ではなかった。

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先日、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑秋季慰霊祭に参列する機会を得ました。千鳥ヶ淵墓苑には、シベリア抑留中に亡くなられた方の遺骨も納められているとのこと。前回の「負傷」で書かれている亡くなられた方のご遺骨もあろうかと思いながら、あらためてご冥福をお祈りしてきました。

私も、この手記を読むまで、シベリア抑留 = 強制労働というふうに理解していたので、給料というと意外でしたが、果たして、あくまで仕事をさせるためのニンジンだったわけですね。
日本兵は、まとまって、助け合い、防衛策を講じる。恐るべし日本兵!

※昭和22年の大卒初任給が200~300円、23年はさらに上がっているようです。当時のソ連国内の物価水準がわからないので、150円あるいは20、30円というのがどれほどの価値だったのでしょうか。

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