2014年9月20日土曜日

その6 休養について

6.休養に就いて

タガノロフ市に着いて直後は、一ヶ月の中に一回休めたらいい方。日曜日にまで殆ど作業に引っ張り出された。起床後食事して、作業出發迄のニ、三十分は、みんなグーグー眠って出發の合図も判らぬ位に疲勞の蓄積だった。
四時半乃至五時に起床、六時過ぎ前に千名近くの人員が食事を終わり、七時に作業出發、八時に作業開始。晝の一時間休みを除いて八時間勞働で五時に終了。六時頃より夕食。食後は自由だが、被服の手入等で毎晩寝るのは十時だ。それで居て飯は足らぬのだから何のゆっくり休む暇があらう。一ヶ月を休みなしに作業すると疲勞の度は大したもんだ。

一日だけ、漸く與えられた休日には、朝から兵舎や庭の掃除々々で約半日は取られる。冬の一番寒い時期等はいっそ凍傷にでもなって休んだほうがましかも知れんと何度思ったことか。作業による過勞、食料不足等の関係で体力は日一日と衰弱して行くのが眼に見える様だ。
終戦直後ロスケと喧嘩したり作業を怠ったりしてみつかったものは懲罰部隊という編成に入れられ、八時間勞働も一番重勞働をやらされて、其の上歸営後更に四時間の強制勞働に服せられるのだ。

二十二年の半(ば)頃から、収容所長が交代になりアリルエフ少佐が来任されてより、大分我々の意見を尊重して呉れ、一ヶ月内の休暇も四回と決定し各人は大体一月に4回は休める様になった。懲罰部隊も廃止となり皆の気持ちが明るくなって余裕が見えてきた。
サナトリウムと云ふ休息室が完成されて、自分は之に第一回目に休息した。この制度は、作業成績の非常に優秀なるものを、十日間だけ作業やらせず、食事も一倍半位食べさして、休まして呉れるのだ。自分は優良作業班の班長としてこの權利を得た譯。十日間の間に參瓩体重が殖えた。

それから作業は体力階級によって割り當てられる。此の階級とは第一、第二、第三、第四とあって、第一グループとは如何なる重勞働にも耐へ得られる者、第二グループは普通の勞働に堪へられる者、第參グループとは軽勞働にしか堪へられない者、第四はオーカーといって弱体者だ。第一、第二グループは八時間勞働、第三グループは四時間勞働だ。第四は勞働はなし。然して此れは収容所に残って軽い使役をやらせられる位が関の山だ。然して此この階級はソ聯の女医と日本の軍医が身体検査(月例)に於いて決定する。

診断に就いては収容所全員千三百五十名の中に病気で作業を休み得る者は大体四十名位とみていゝ。手や足の負傷で、どうしても出場されないもの、風にて熱のある者、下痢患者が大多数である。このやうな患者が四十名も越える様になって来ると、一日に十回位下痢しても、熱が三十七度五分位になっても、ビッコ引く位の負傷でも、作業に引っ張り出されることになる。でないと、余計に患者を出したと云ふので収容所の女医がスターリンから叱られるさうだ。

患者の少ない時ならば直ぐ休ませるのが右の様な時は歩けない様な者まで作業やらせられるから益々悪化する。どうにもならなくなると作業休を呉れるが、其の代わりに休んで居た患者の満足に直って居ない者が早速出されると云った具合。兎に角、作業休に就いてだけは実にひどいやり方だった。


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先日、やはりお父様が抑留されていたという方とお話をする機会がありましたが、収容所の所長や、医師によっては、被抑留者の労働のさせ方にもずいぶん違いがあり、生還率にも大きな差があったという話をお聞きしました。
その方のお父上がいた収容所は99%の方が生還されたとか。(全体の生還率は9割、70万人抑留されて、1割が収容先で亡くなったといわれています。)

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