2014年9月13日土曜日

その5 作業について

5.作業に就いて

 我々の部隊のやった作業は、大体ロシヤとドイツとの戦争で破壊された工場及び建物の復興が主だった。従って一つ一つの仕事も煉瓦積の破壊やら煉瓦についてゐるモルタル落し、煉瓦積工、セメント練、大工、だった。其の他機械工場の掃除やら鋳物工場のグラインダー作業、旋盤作業、重量物運搬作業、自動車積降し作業、線路工夫、壁塗りもあった。

自分でやったのは、セメント會社に約半年。此處には砂、セメント、石灰、炭殻が材料で、一部はミキサーを使ってセメントを練って、これを他工場の煉瓦積やってゐるところへ運び込むんだ。之が、一日やらねばならぬ仕事量が大きな事には我々は相當鍛われた。
どれだけやってもやっても、パーセントは百パーセント以下。給與、糧秣はおかげで減らされるし、ますます作業が悪くなるばかり。冬になると水か氷ってミキサー(セメント練り機械)は運轉不能になるから4人ばかりで円匙でセメント、砂、又は石を練り合わせねばならぬ。食事がウンと不足勝ちで足のフンばりもなくなって来る。ロスケはお前等が作業成績が悪いから給與を悪くするんだ、成績を上げてみろ、何ぼでも食わしてやるからと云ふ。それで我々は良心的に一生懸命にやっていたんだが、あとでは馬鹿らしくて真面目に仕事しなかった。

平均五、六名一組で作業班が編成される。その班が班長以下同一仕事に従事して仕事量のパーセントを貰ひ、それに依って食事の方も増減する仕組みになっている。そんな譯で易い仕事の方はパーセントもよく向上するので飯もよく食へるし月給も貰へるが、仕事に依ってはどれだけ努力しようとパーセントは向上せずその為飯の量も少なく月給も貰へない。その為仕事は益々低下し、本人は日一日と痩せ衰えて行く。
自分の班もパーセントの悪いセメント會社に行ったので、仕事は多くやらされた上食事は少ないので班員がだんだん弱体者になって了った。この食事の量で人間をこき使ってるようなもんだ。人間はいやしいから無理やり働かねばならぬのだ。日本でも捕虜は使ってゐたが作業を主食の増減に依ってつり出していた事はないだらう。

自分が八名の作業班長として一九四六年の十二月よりカーペーぺのセメント練りを始めた。それ迄は、同所で斉藤[]長が作業班長だった。班長は班員を指揮統率して、ロスケより受けた作業を完遂する任務を有する。それに作業前には班長の名前で器材を借用して、作業中には紛失に注意し作業終了后は、朝借りた員数をロスケに返納せねばならぬ。
如何にしたら作業能率を向上させるか、創意工夫して班員を適材適所に配置せねばならぬのだ。そしてその上班員を引きずって行くだけの仕事を率先垂範、実行せねばならない。故に筋肉勞働だけでなく精神的にも疲勞する譯だ。十二月に班長になって以来幸に%も百%より下らず一月末頃まで頑張り通した。

二月の初よりタガノロフ市から一つ離れた駅の除雪作業に轉用された。この年は何十年振りの大雪とてよく雪が降り續いて、駅構内も積雪の為運轉不能になりかけたのだ。毎日この駅へ參百名近くの人員が雪除作業に使はれた次第。
二月だから毎日気温が零下二〇度位に下がる。冷たい朝八時よりタガノロフ市の駅まで雪道を歩いて行き、此處から汽車に乗ってマルツワの駅に行くのだ。歩く間はよいが駅に付いてから列車が来る迄二時間も參時間もかかる事がある。其の間火の気の一つもない貨車のプラットホームで待機せねばならぬ。どんな乾燥した短靴をはいてゐても雪の上を歩いて来るだけで相當湿りけを持つ。足の痛いこと痛いこと。冷たいのを通り越した痛さだ。
駅でニ、參時間寒い目にあって漸く汽車にのると十分位でマルツワ駅に着くが、此處に来ると高台になってゐるので、街の方より、參度は気温が低い。器材を受領すると仕事を教わって直ちにかかる。仕事してゐる間が寒くなくて極楽だ。保温の為の勞働だ。
參時半頃作業終了すると晝飯になる。パン二百五十瓦にスープ椀一杯だ。寒いとき食堂で食べるのだから暖かいが參百人が狭い食堂で食べるんだから食うか食わぬ中に外に出される。
全員食事を終わると汽車に乗って歸るのだが、その汽車が四時に来なければならぬのが六時迄七時迄も来ないことが普通だった。その間朝と同じく寒い目に逢って待って居なければならぬ。
雪除作業は作業そのものよりも汽車を待ったりする時間が永くて、火の気もない線路界隈で一時間も二時間も零下二〇度位の冷たさと戦わねばならぬから仕事よりも余程えらかった。靴が終戦時に履いたままの品だから悪くなって満足な奴はないのだ。一寸雪の上を歩くと靴下がじゅっくり湿りけを持って来る。
凍傷の経験のない者等大分凍傷にやられた。一寸そっとの凍傷や怪我ではやっぱり作業に引張り出されるんで可哀いさうだ。腹をこはしてゐても無理矢理引張り出されて冷たさに逢ふので、いつまでも腹の病気は治らず、益々ひどくなって栄養失調になって了ふのだ。
ハイラルの冬期演習が寒いと云って居たが、其の時は精神的に條件が違ふし、栄養方面より云っても又然り。それでも朝から兵舎を出て夕方まで全然火に當らず外にばかりゐる事はなかったから瞬間的に寒かったかも知れないが、今度ほど寒さは耐えなかったのだ。然るに捕虜生活に於ては前期の條件につけて加えて被服不完全ときてゐるから尚更甚しく寒く身に感じた譯である。

マルツワ駅の構内作業中の面白かった事は、線路と線路の間の氷を十字鍬や鉄棒の尖った奴で砕いて居る時、直ぐ横の箱貨車から子供が盛んにかっぱらってゐる。時々銃を持って監視員が廻って来ると、いつの間にか居なくなる。ハテナ何だらうと仕事し乍ら注意してゐると又子供が取りに来た。どうも食物らしい。貨車の壁をはづして、手突っ込んで取り出してゐる子供が逃げて行った。
自分の班の○○君、あたりを監視し乍ら件の穴のところに近寄り一つ大きいのを取り出して持って来た。大豆粕のような未だ目の細かい黒味が買ったレコード位の丸い板だ。みんなで食べものなら食ってみろと、少しづつ食ってみると香ばしくてうまい。実に噛みでがある。落着いてよく見ると日廻りの実の絞り粕だ。
一つ食って味食ひ出したので、それぢゃと又○○君や□□君とレコード位の丸いやつを十枚位運び出した。仕事の最中なので、その品物の分散秘匿に苦心する。ロスケに見つかったら最後、刑法に引っかかるかも知れんのだ。仕事し乍ら細かく割ったやつを一日中噛ぢってゐた。歸りには腹の中にかくすやら防寒帽に入れるやら大事(おおごと)して収容所にもって歸った。
あとで判ったがひまはりの種圧搾で丸い奴一枚は四、五十円する相だ。他の戦友に少しずつ分配したが、大体食糧不足の折とてみんなうまいうまいと云って食った。自分等は飯食ふ時以外は暇さへあれば之を食ってばかり居たので、此の色と同じ色の糞が出るようになり、後で下痢して了った。

雪除作業も參月になって雪がとけ始めるころ出田作業班はオスム11と云うところの製材工場にやられた。此處の貨車引込線に満載した貨車が入って来るとそれを八名で片側に却下する。直径參、四十糎の松丸太が主だ。長さは二間乃至參間ある。一回に十台近くも入って来ると降ろした奴を今度整理するのに大変だ。引込線より四十米位離れて之に平行してトロッコが敷いてある。此處で松丸太を積んで製材工場へ押し込むのだ。トロッコ積込の準備の為にトロッコの線路の傍ら迄貨車より降ろした材木を轉がして積む易い様に枕木を置いて奇麗に積み上げて置かねばならぬ。
自分の班は、雨谷、山根、山本、赤澤と強力ばかり揃ってゐる。其の他小海、川西、三本と之亦力も強いが頭のいい者ばかりだった。都合八名だ。朝、監督が、これだけやったら何時にでも終わり次第に歸ってもよいと断言したので、全力を振って午後一時にやり上げた。監督も之には全く驚いて、歸すとは云ふたものの勞働八時間で四時になってから歸さないと収容所から叱られると云うで、木工場で四時まで遊ばして呉れた。
我々も約束は実行して呉れなかったが、別に仕事には使はれなかったので、此處の監督ならば、一寸頑張ってやらうと云う気が起こった。ナァニ大抵の監督ならばやれと云っただけの量の仕事を終ると欲が出て余分にやらせようとするのだ。そこでわが作業班はよく働く作業班だと監督も感心しただろうし、我々も亦この監督はええ監督だと(いう)感じになった。之から優良作業班の中に出田班が乗る様になったのだ。
參月に入ったものの時々雪に降られて材木に積もって居るのを払ひのけ乍ら重い奴をローム(脚注:ロームとは「カナテコ」のこと)でヤッサコラサで汗びっしょりで動かした。
監督はすっかり信用して了って、どんなに休憩してる時に来ようとも、ダバイ一言云はないで反対にパピロス(脚注:パピロスは口付タバコ)一本呉れて行く。こんなに煙草呉れるなら遊んでばかり居たんでは気の毒だと余分な仕事迄やり上げてしまう様な調子。
之が之迄に我々が使われた監督の場合だったら、休憩でもして居やうものなら、ダバイダバイと尻を追い立てる。煙草は呉れと云っても無いと云って呉れない。だからどうせロシヤの為にしかならんのだ。余りやるなといった具合で誰も居なくなったら休んでばかり、仕事は少しも能率上がらない。
特に捕虜なんか気の抜けた人形みたいなもんだ。それで居て自分の口が肥えるとなりゃ欲が出て働く。其處を狙って使へば何處の国の捕虜だってよく働くだらう。只働け働け、働かんと飯食わせんぞ、ではいい働きは出来んのである。それは、我々の経験からして断言できる。木工場の現監督は作業班長としての意見は実によく聞いて呉れた。こんな人が本當に民主的な人だらう。

材木整理が済んだころ、次の引込線の線路工夫をやらされた。子供の頃線路で工夫が大きなつるはしを大きく振り上げてのんびり打ち降ろしてゐるのをよく見て居たが、自分で枕木を入れて砂利石を入れて泥や砂を入れ搗き固めてみると何があんなにゆっくりやっているのかがよく判った。一日に二人一組で五本位入れ換へて居た様だ。
二十二年の參月末には木工場から飛行機工場の製材工場に廻されたが、木工場の監督が俺のところは出田班でなくてはいかん、と収容所に申し込んで、又木工場に引き戻して呉れた。

5月か6月になってどうしても其處を止めなければならぬ事になり、煉瓦工場の釜出しに廻された。之は未だ焼き立ての暑い釜の中に入り、素手では一寸握れない煉瓦を手袋で運び出し、自動車に積み込む仕事だ。暑い手の焼けるようなのを二つづつ手送りして一輪車に積み、鉄板のレールの上を押して表の自動車の下迄運び、それを自動車に積む。八名で一日一萬枚位煉瓦を積み込んで百參十%を貰ふ譯だ。
釜は未だ石炭殻が一杯で、煉瓦の赤い粉と灰でもの凄いゴミホコリが充満。それに温度が高いので、汗に流れて汚れること汚れること。此處の中に日光でも差し込もうものなら、凄いホコリで防毒面でもつけなくては入る気しない位の非衛生ブリだ。此の悪い作業を二ヶ月も毎日々々やらされて最後には熱發する様になった。炭殻から發生する瓦斯に相當やられて頭が痛むのが屢々だった。熱發して診断受ける度に、作業場が悪いから交代さしてくれ、とロスケにも交渉したが、なかなか止めさして呉れなかった。

煉瓦工場も満ニヶ月位やらされて漸くのこと開放された。此の作業場に於いても我が班が断然光って居た。他の作業班が来ても我々の半分位しか出せないのだ。此處の監督が交代しちゃいかんと盛んに引き止めていた譯だ。二十分も自動車一台にかかるところ十分位で軽く出して積んで了ふんだ。
此の次にやったのが自動車に石炭、砂、鉄材、木材等の積載却下作業。之は一台に二、參、名づゝ分乗。街へ出られるのでいろいろの役得もあり、非常に面白く一日が短い作業だった。面白いところはあとで記す。

二十參年になって、始めて月給を百五十円も貰えるところのアンドレーバー工場(製鉄)に通うことになった。二年間も働いて合計二百円しか月給というやつは手にして居なかった。
此處の仕事は重勞働で線路、枕木交換、ナマコ整理、運搬、鋳物工場、溶鉱炉に入れる古地金の整理等いろいろあった。冬の一番寒い時なんで鉄いぢりの冷たいこと。まあ月給楽しみに頑張っているから續くんだが、之がなかった(ら)到底かなはんだらう。
此の工場には參百人位の同僚が働いて居たんだが、五、六十名の班長やらされて、人員の区署、仕事の割當等やらされて心身ともに相當くたびれた。月末になって熱にやられて遂に三日休み。おまけに二十八日付けで弱体者の組に入れられてあとを續けなかったので夢見て居た百五十円の俸給もオヂャンになって了った。
弱体者で三月四月と丸々二ヶ月仕事もなしで遊ばして呉れたので漸く五月になって再起。第二グループと軽勞働に服することになり、旋盤工場の掃除をやらせられた。
以上で自分のやったラボータは終わり、其の他は煉瓦工、之は一日千枚位積んで始めて一人前だ。

最初は之に従事したものは五百枚位しか積めず、相當パーセントで苦しめられて居た。それに鋳物製品のグラインダー仕上げ作業、電気溶接、大工、壁塗り、電気工等あらゆる仕事があった。土方の穴掘りが一日の仕事量が參立方米の大きさの穴を掘って漸く百%だ。それが穴掘りの仕事にしてもロスケの頭は固く融通が利かぬから、どんなに固い地面でも畠の様な柔らかい地面でも、やっぱり同じ仕事量を完遂せねばならない。煉瓦について居るセメントを落として又使用されるようにする作業が一人一日積み上げて一立方米で百パーセントだった。


**********

人の使い方、組織の動かし方、勉強になります。当時の月給150円が、どの程度の価値があったのかわかりませんが、月給があったことはちょっと意外な気もします。ただ、正当な対価ではなかったのはわかります。

0 件のコメント:

コメントを投稿