2014年8月23日土曜日

その2 列車輸送

2.列車輸送

前記野宿地に寝起きする事約二週間。其の間近所の(近所といってもニ、參粁は充分)道路修理に使はれて六月十八日に漸く明日乗車して目的地に出發することが判明する。この日より出發準備に取りかかった。
さて、十九日になると毛布仕立の天幕を撤収、装具を梱包して午前中に整列、線路の上の斜面にて装具の検査受く。ロスケの将校数名と兵隊数名が検査するんだが、之又程度の悪い奴が居て所持品のめぼしいものをかっぱらって了う。万年筆、時計等其の著しい例だ。
装具検査を二、參時間も費やして終わると貨車の準備が出来る迄其の儘待期。夕暮頃乗車して何處かに向かい出發するらしい。それが何處であるか大隊長始め我々には知る由もない。入院[出発?]直前に腹工[具]合悪くて、一名兵隊がゴスピタリ(入院)した。
予想通り夕暮に貨車に割當られた。六十トン貨車に約五十名だ。平壌より興南迄の八十名よりは余程増しだ。然し全員が横になったら歩くのに足の踏場も無し。横になって行けるだけ捕虜たる我々は感謝せねばなるまいて。貨車は六十トンの有蓋車だ。小窓はみんな釘付けしてあり小便する樋が片側の扉を少しあけて釘付けにしてある。大便小便すべてこれに依るのだ。逃亡を予想しての處置らしい。
全員乗車完了すると歩哨が人員点呼に来た。全員社内の前半に寄せられ、歩哨が立っている前を歩いて人の居ない片側に行くのだ。それを一、ニ、參と数えるのだが、そのロシヤ語が知らない我々にはピーナット、ドーナットと聞こえて可笑しくなって来る。数へ違へると腹立てて尻を蹴っ飛ばす。大体今迄のロスケがみんな数を読むのが下手だ。乗車地の将校は七千名かの人員を数へるのに一日を費やしたような次第だ。
点呼を終わって歩哨は下車すると扉を閉めて表より鍵を掛けた。六月の十九日と云えばシベリヤの真夏だ。狭い箱の中に50名も押詰められ、窓といふ窓は皆閉ざされて蒸し暑くて處置なし。之で何日と保てるであらうかと思ふと全く心細くなって了ふ。
暮くなってから北に向かって出發した。いざ出發してみると今迄乗り馴れた内地や満州の列車に比したら、その反動のひどい事、ひどい事。丸でパンクした自働車で凸凹道でも走る様だ。車内は真っ暗で蒸し暑く、おまけに車内に便所があるのでクサくて全く堪らない。
我々も捕虜として此處まで来た以上環境に參って了っては之又仕方ないので、やけくそになって、就寝前には寝て居る順で演藝會等を実施する。腹一杯食って涼しいところでやるのと違ひ、クサさと暑さと暗さとガタガタとに斗い乍ら、やるのだから悲壮だ。
參日位経ってシベリヤ本線に入ったらガタガタも大分静かになった。朝になると歩哨が各列車を巡って来て扉を開いて、点呼を取る。御機嫌がいいときは無事だが、そうでない時は一名二名は必ず突き飛ばされるか蹴飛ばされる。朝の点呼が済むと片側の大扉は開放されるので、異境の地を眺めるのに余念無し。人家が稀にあり、あとは草原や松林のみ。実に殺風景な眺めだ。東海道線の眺めに比したら淋しい極みなりき。雄大な眺めと云うかも知れんが、之も捕虜で然も何處の勞働に引っ張られていくかも判らんものには、その気持ちも少しも無し。
食事の方は車輌が数重あって、中央の車輌が炊事車だ。此處で勤務員(日本人)が五、六名。千名の食事を大きな釜で炊いてくれる。米も時々はあったが、殆ど粉類が多く、一人分飯盒の蓋一杯だ。一日に二回。それにパンが參五〇瓦。朝鮮産のグリコース(工業用砂糖)が角砂糖一ツ分位。メンタイの乾物が五匹。その儘渡される。まあ、どうせ車内でゴロゴロ寝て居るんだからどうやら過ごせないでもなかった。水は車内より五、六名當番出して、停車時間の長い駅で水筒に詰めて来る。暑い盛りで思ふよう補給できず水だけにはほとほと困った。
タバコは収容されて以来二、參回支給されただけなので、みんな困り續けだ。自分はこの列車に乗車二日前に糧秣係のロスケに腕時計をやって煙草を五〇〇瓦位貰ったので、車内では実に円滑に、乗りあはせた戦友にも大分吸はせてやった。
シベリヤ鉄道もバイカル湖畔を通るときは六月末と云ふのに寒くて仕様がなかった。乗車直後の暑さを羨めしいと思った。防寒外套、毛布をかぶっても夜明は眠れなかった。又湖畔と云ふと内地の湖の畔を思ひ浮かべ易いが、世界で一番大きな湖だけに、丸で海の様である。朝だったからかも知れないが、水は澄んで冷たさうであった。
ノボシビリスクに停車したら二時間位して入浴と被服の消毒をした。之は駅から二粁位のところにある検疫所で、着用してゐる被服一切、毛布、外套等全部蒸気室の中で消毒するのだ。しらみとは縁のある捕虜にとっては実に親切なやり方である。又、ロスケに取っての發疹チフス予防の為になくてならぬものだ。
入浴の方は一度に何千という人間が入れる広さで、日本式の浴槽とは違ひ、蛇口が熱湯と水が並んで豊富に流れ出て来る。我々は朝鮮出發以来、風呂に入って居ないもんだから、汚が出るわ出るわ。何度こすっても限りなし。首迄つかって了ふのだったら、ホトびてよく落ちるかも知れないが、洗面器で流すんだから知れたもんだ。
入浴が終わるとビホンビホン(脚注:ビホンとは急げのこと)と尻追いまくられて貨車に歸った。約一日停車の後、さらに出發。約十日も汽車に乗り續くるもいまだ行先不明。駅構内でロスケが云ふにゃ、ニポンスキーは一九四八年に歸れる、と。之から二年も何に使はれるか知らんが、不安なものだ。
沿線のロシヤ人の感じは? 言葉を知らぬ自分等は向ふから話しかけられてもチンプンカンプンで、さっぱり判らず大していいとは思へなかった。停車すると車内にロスケの兵隊が上がってきても我々をからかふ。その隙に、ゆだんすると品物をかっぱらって行って了ふ。
ノモンハン事件に參加した兵隊の多い街等では、水汲みに行く兵隊に石を投げつけたり水筒をかっぱらったり、未だ幾らか恨みを残して居るんだらう。子供が車輌目がけて石を投げつけるのが大分居た。又、我々が煙草を欲しがって居るのを知ってか、煙草の小箱をみせて万年筆と交換してやると云ふ。それを信用してうっかり交換すると一箱だけは中身が入っていたが、後三箱は空っぽすだったりだ。
しかし、悪い奴ばかりでもない。中には果物を持って来て呉れたり、口付きのパピロスと云う煙草を呉れた◆◆◆◆(読取不能)大分見られた。オムスクよりモスコーに近い方に行くと、我々を珍しがって居た様だ。
ウラルの山脈に入ると電気汽缶(機関)車だ。長い長いのぼり坂。内地の長さとケタが違う。ようやく一日位掛って通り過ぎた。一本の列車が〔蛇行する曲線〕この位曲がってマーロマーロ(脚注:マーロとは少しずつ、ゆっくり)で上っていくんだから無理もない。
列車より見る沿線の建物、シベリヤ付近は実にソボクに出来て居る。主に木造建が多い。ウラルを越えてだんだん向ふに行くと木造が少なくなって、煉瓦積み泥壁が多くなって云った様に思ふ。
愈々二十日も汽車に乗っているのに下車するなんて噂にも出ない。外の景色もだんだん東洋とは変わって行くのか、大してみる気もしない。車内で麻雀やったり碁将基(棋)がえらくはやる。ドン河も渡りドナウ河も渡った。オビ、エニセーの大河もシベリヤで渡ってきてゐる。ボルガの舟歌で聞こえたボルガ河はやはり相當の広さだ。川汽船が静かに動いて居た様だった。
汽車旅行も十日以上となれば停止して居る時よりも走って居る時の方が安心して眠れるとは今度始めて味った。グッスリ眠って居る時でも汽車が停止して静かになると何時の間にか眠りが覚める。まったく可笑しい位だ。

以上述べた様な車中生活にも二十五日にして漸く終りを告げた。七月一四日にアゾフ海沿岸のタガノロフ市に到着。貨物列車引込線にて全員下車した。


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現在でも、シベリア鉄道のウラジオストック~ウクライナ(ドネツク)間が9日間かかるということですが、25日間の窓のない貨車での移動は、想像を絶するものです。それにしても、そんな中でも演芸会やら麻雀、囲碁将棋などに興ずるというところには、しぶとさを感じます。

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