2014年8月17日日曜日

その一 前書き・目次・入「ソ」第一日

ひまわり ~あちらでの話~         出田常喜


ひまわりについて

 苦しかったロシヤの生活。空腹だった収容所の寝起き。又、その苦しさの中にも楽しみはあった。そのような諸々の出来事を、ロシヤに入って歸るまでの順序を追うて記してみようと思って、未だあまり忘れてもゐない二十參年の九月頃、汗を流しながら毎晩少しずつ思い出し、引き出し書いたのがこのまづい字、文章になって了った。
 もともと人に見せる為に書いたものではなかったし、二、參の人に見せたら、面白い、珍しいと云う。では、誰でも読める様にしやうと思って纏め上げた譯です。



目次
入「ソ」第一日
列車輸送
ゲルマン民族
ロシヤ語
作業に就いて
休養に就いて
衛生清潔
給與
負傷
月給
葬式
勞働者
病院
「ダモイ」のデマ
教育
ダモイ
追記
かっぱらいに就いて
壁新聞
生産會議



1.入ソ第一日

 東京ダモイ、ダモイ、とロス毛にだまされて着いたところがポゼット湾だ。ちょうど晝過ぎだった。  港には一隻の貨物船が居て、盛んに糧秣の積込の盛中。我々はこの船に横付けになり、これの甲板を経て下船する。1年間も住み慣れた満州の山々が東の方向に見える。国境より幾らも離れていないことは確かだ。
 真夏の日に照らされて,今まで船倉に座る場所もないくらいに押し詰められてゐた我々の目はまぶしく仕様がない位だ。
 全員下船終了すると港湾の小高い丘に引っ張りあげられる坂の途中で、女医の身体検査が実施された。虱検査も実施される。余程虱を嫌がっているものと見える。女医が、頭痛イ、腹痛イ等とかたことの日本語で尋ねる。これから察するに我々の前には相當の日本人が上陸させられたことが想像出来る。
 検査を終えて丘に上りつめると其處には天幕張り病院がいくつも並んでゐる。病院の傍らでロスケの歩哨が来る迄待機だ。今からどこへ引いて行かれるか、皆目判らない。
 先刻の身体検査で弱体者は選び出された。自働車で輸送するらしい。健康者は徒歩だ。我々は防寒具一式、軍衣袴二着、ジュハン、コ下も各二着、背嚢、雑嚢、水筒、毛布外套と腰周りから背迄一杯だ。これだけの重量を背負って何里かの道を歩かせられるのだ。どこに行って、どこに泊まるのかさへ判らず、少なからず不安にかられる。
 それよりも飯は何を食うか。
 そこで待ってゐる中にトラックが前に停車して、色青ざめた日本人が十四、五名降りた。或る者は松葉杖だし、或る者は歩けず腹這って幕舎に入って行った。皆、我々と口をきく元気もない。あんなに成るまで酷使されているのか。我々もこれからあんなめに逢わねばなるまいと思ふとゾッとする。
 二時間するとロスケの兵隊が来て人員点検したる後、出發を命じた。数千名の人員の下船、それに身体検査等もう大分時間も経って、夕暮れが近づいて来た。林の間をぬふて歩くが、到るところに弾丸や大砲が澤山かくしてあった。
 朝からヒモノのめんたいしか食ってゐない腹はぐうぐうだ。日は没したと云うのに両側に歩哨の銃剣着いて歩け歩けだ。弱体者は選び出されたはずなのだが、ボツリボツリ落伍者が出る。軍隊盛んなりし時の行軍と精神の在り様が違ふ故詮方なし。
 歩いても歩いても兵舎らしい家一つとて無し。途中でトラックがニ、參台、我々の背負ってる荷を運ぶ為目的地までの間を往復し始めた。アゴ出してゐる者は来る度に、俺も俺もと積み込んだ。自分は隊長の職にあり、それに体力も自身あるし、お世話になること無し。ロスケのことだし、どうなることだかと言ふ考へもあった。
 夜の九時頃か漸く鉄道線のあるところまで来た。此處が當分の間の宿営地ださうだ。全員野宿だ。晝から心配してゐたのが始まった譯だ。凸凹の草原に天幕を敷いて、毛布を着て分隊員くっつき逢うて一夜を明かす。何をするにも暗さは暗し、腹はぐうぐうだし、何も出来ず、美しいか汚いか分りもしない水をガブガブ飲んでスパーチ(寝ること)。スパーチといふ言葉も此處では覺えてゐた。

 入ソ第一日の印象は、見慣れない、しかも謎々のソ聯領に踏み込み、今後の不安さ、第一日目からの空腹で、シミジミ捕虜のみの辛さを味わった。


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 冒頭に出てくる「ポゼット湾」は、ロシアの北朝鮮との国境に近い、ポシェト湾のことではないかと思われます。

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