2014年8月17日日曜日

ひまわり の公開にあたって

数年前、私の母から、古びたノートブックを渡されました。それは、もう32年前に亡くなった父が、昭和23年、シベリア抑留から帰ってきた後に、3年間(※2)の抑留生活を思い出すままに記したものでした。

父・出田常喜は大正11年、熊本県生まれ。旧制中学校卒業後、大蔵省専売局に入局。恥ずかしながら、軍への招集がいつだったかなど、細かい軍歴を聞いたことはありませんでしたが、外地では上海を経て、ハルビンの付近で終戦を迎えたようです。
帰国後は、専売局(後に専売公社~日本たばこ㈱)に復職し九州の工場に定年まで勤務していましたが、昭和58年に肺がんを患いこの世を去りました。

父が抑留されていたのは、今、最も緊張状態にある現在のウクライナ東部の国境に近い、ロシアのタガンログというアゾフ海沿岸の町でした。もちろん、ウクライナの近くとはいっても、冬は氷点下30度にも40度にもなるという厳しい寒さの土地です。
父は元来口数の多いほうではなく、生前、シベリア鉄道での移送や抑留生活が辛かったこと、多くの仲間を失ったことなど、断片的に聞いたことはありましたが、具体的な生活や労働のことなどについて聞くことはありませんでした。
この手記を読んでみると、疑問に思うこと、詳しく聞いてみたいことが数多く出てきますが、今となってはどうしようもありません。

シベリアに抑留された日本人は五十数万人といわれ、短くて1年半、長きに至っては実に10年以上にわたる収容所生活を経験された方もいらっしゃいます。(この間に亡くなった方は5万人とも6万人とも言われています。)
父は、大正11年生まれ。生きているなら今年92歳になり、抑留生活を経験された方も高齢になり、亡くなられた方もたくさんいらっしゃるようです。

この手記が、同じ体験をされた方々のお目に留まれば幸いですし、残念ながら故人となられた抑留経験者をご親族にお持ちの方にもご覧いただきたく、この手記を順次掲載させていただきます。

※1:手記は、父が書いたままを、できるだけ忠実に、タイプしています。したがって、旧字、旧仮名遣い、誤字等もあろうかと思いますのでご容赦ください。

※2:手記の冒頭に、ロシアへの移送が始まったのが6月とあります。また、これも確認しようがありませんが、昭和20年8月の終戦から翌21年の6月までは、ソ連が侵攻した旧満州付近で捕虜として収容所生活を送っていたのではないかと思われます。

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