2014年11月15日土曜日

17 病院 、 18 女

17.病院

 ロシアに於いては、病院は總べて國家管理であって、治療費は官費である。医療は病気に依って施療日数が決まってゐる相だ。手先の負傷は十五日と決まってとゐる、すると指先の負傷がやゝこしくて其の日数で治りさうにないと、根元から切断されて了ふ。それのほうが治りが実際に早い相である。でロシア人を見るに、日本人より手足の不具者が多い様だった。右之様な制度の弊害は実際にあるか否か、自分が病院へ行って見た譯ではない。
 不具者が多いと云ふのは、ロシアの医学がそれだけ遅れてゐる何よりの證據だ。

 ロシアの地方人は入院するもの全部頭は坊主にされ、脇毛も陰毛も人体に生えてゐる毛はそり落とされる。これは虱予防の爲ださうである。

18.女

 男女同權の下にロシアの女は、男に負けずあらゆる方面に活動してゐる。ニュース等で聞く通り、女の兵隊も居る。軍医、看護婦等は女だ。ほとんどと云っていい位だろう。したがって我々捕虜の軍医は女医の少佐だった。

 女の強いこと強いこと。男と女の喧嘩もみたが、決して男に負けてゐない。我々はタガノロフ到着當時は、髪の毛の違ふのをみて、何か遠いところに来た様な淋しい感じとらわれた。七月だったから薄い洋服に足をすっきり伸ばして、颯爽と歩いてる様を眺めて、大分日本の女と違ふなあーと思った。それが一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。

 髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。中には黒いのもゐた。前にも述べた通り体格がよく乳が大きくて物凄い。尻が太くて足がたくましい。勞働に馴れてるせいか力が強い。

 収容所に居た看護婦シューラーは、独身の若い娘であったが、背丈が五尺六寸位あったらう。我々日本人より大分大きかった。金髪に近い毛色で器量もいゝ方だった。彼女が、捕虜○○が首吊りをして死んだ時現場を見て、此の人にも故郷には親妻子もあるだらうにと云って泣いてゐた。
ところがロスケの噂に依ると、彼女の持物が余り大きいので嫁に貰ひ手がないと云ふことだ。それでその看護婦の前では、絶対にバリショウイ(大きい)と云ふ言葉は使用するな、と云ふ事だった。然し、我々が一九四八年の六月ウラヂオに向かった時は、何時の間にか結婚してゐたし、新婚早々であり乍ら、我々をナホトカの港まで任務とは云ひ乍、送って来て呉れた。

**********
「一年二年と働いてる中に、多くの女とも話したり働いてみた後では、入營前日本の女を見てゐた時の気持ちと少しも違はない様になって了った。」
 収容所にいた父は、当時23歳から25歳。周囲にいる女性はロシア人だけですから、特別の感情を持っても不思議はなかったと思います。果たして、父が好感を持っていたのは誰だったのかなどと考えながら読みました。

 「髪の毛色は金髪は余り見受けない。ブロンドが多い。」 
 意味がよくわかりませんが、父がイメージしていた金髪とは違っていたのでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿