2014年11月22日土曜日

19 ダモイのデマ

19.ダモイのデマ

我々は何時になったら日本へ歸れるのだらうか。スターリンは歸す気があるのだらうか。褌一本でもいゝから歸してさへ呉れたらいゝがなあ。
これはシベリヤに引張られたる者の共通の、然も最大の願望だった。
歸ったら一番先に食ふものは何か。俺は先づ風呂に入って捕虜の汚れを落としてから銀飯に澤庵でいゝ。俺はボタモチのコッテリ甘いのを腹一杯食ふんだ。俺は何と云っても酒だ。と、何を云っても食ひ物の話だ。
皆復員の夢をたのしく描いてゐる。反面捕虜で歸るんだから晝間は恥ずかしいだらうな。親爺はどんな顔をするんだらう。俺達は天皇陛下の命令で中止したんだから仕様ねえや、と云ふ心配もあった。
千參百も居る収容所内では誰か一人でも、今年何月にや歸れる、今日ロスケが云ふた、とでも云はうものなら忽ちにして所内に擴がる。戦友が一寸でもそんな話をして居るのを立ち聞きすれば根掘葉掘、聞くのに一生懸命だ。
そしてその月の楽しみにしてゐるとその月は何時の間にやら過ぎて過ぎて了う。あゝだまされた。之が二年の間何回となく繰返へされた。然しそんなに何度もだまされたと知ってゐながらそんな話を一寸でも聞けば又真面目になって聞き出すのだ。

ほのかに歸る希望を抱いてゐる内地に歸る夢。家に歸り着いて皆と顔を合はせたが、誰も顔を見ただけで物を云はない。やっぱり捕虜になって歸ったからだらう。家の畳でボタモチを皿一杯出されて食はふとするがどうしても喉を通らなかったり、皆夢だ。この様な夢もみる時には一週間位續けてみるが後は二、參ヶ月も全然みない。確かに周期を持って家の夢が廻って来る。こんな時には家の方でもそんな夢をみてゐるかも知れない。

それから葉書を出せる様になってから皆自分の家へ出した。その返事が一九四八年の春頃になって来始めた時の喜び。俺の子供相當大きくなってゐるらしい、家内も元気だとはしゃぎ廻る者。米が一升幾らになってゐるさうだとか、内地のニュースを皆でよってたかって聞いてゐた。

中には自分みたいに終戦後に妹が病死したと云ふ便りを貰った者もいるだらう。然し自分は朝鮮に居る時の九州の空襲状況も情報では入って居たので家族全部死んぢゃいないだらうかと云ふ不安もあった。それでロスケから葉書を受け取って一読した瞬間は親爺の見覺えある字をみて一人だけでよかった、他は皆元気だと安心が起った。
しかし自分の寝台に歸り着いて落着くとやっぱり涙がにじんで来た。二十幾かにまでなってと思ふと、肉親の情と云ふものは何萬里離れても同じで変らぬ。家も焼けて居らずに本當に心から安心した譯で益々一日も早く歸り度くなった。

一九四七年の五月には収容所内では我々輸送列車の指揮のメンバー迄決まって愈々内地ダモーイの内命がスターリンからあったと云ふので、収容所内でも貨車の設備の準備までして本當の命令の来るのを待ったが、七月になっても八月も九月も遂に来づ、我々をより一層落膽させ又寒い厭な冬を越させて了った。
一冬と簡単に云ふけれども、シベリヤに居るものにとって冬程苦しい時はないのだ。その苦しみは一寸云ひ表し得ないだらう。一冬のびただけで何名の日本人が栄養失調で、作業上の事故で死亡し又病気するか。今も尚四十萬の同胞が残ってゐるかを思ふとゾッとする。彼等はきっと寒さと疲勞の中に、来春には家に歸る日が来るであらう、一日々々を暮らしその日の来たらん事を願ってゐるであらう。



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 ロシア語「ダモイ」というのは、go home の home という意味のようですが、収容所の日本兵の間では、帰国、復員を意味する合言葉のように使われていたとのこと。
 父たちのソ連での収容所生活は2年間でしたが、もっと長く抑留されていた収容所では、こんなデマが何度も流れては、期待と落胆の繰り返し・・・、そしてあきらめにも繋がるでしょう。収容所生活の辛さの一面です。
 
 文中の叔母が亡くなったのは、終戦後間もない昭和20年11月7日。享年21歳。詳しくは聞いていませんが、結核ではなかったかと思います。たしか、すぐ下の妹だったので、ショックではあったのだと思います。

 私たちの実家の界隈は、熊本大空襲での被害は免れましたが、米軍機の無差別機銃掃射を受けたという話を聞いたことがあります。実家にも機関砲の銃弾が残っていましたし、近所では子供が亡くなったそうです。

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