2019年3月4日月曜日

【舞鶴に行って来ました】

このブログの最後の記事を書いて4年が経った。
 この間、私の住む熊本の大地が大きく揺さぶられ、あらためて「平穏」の有難さを見に染みて感じ、その一年後には長年勤めた職場を退職し、新しい仕事に就くことになった。それからさらに1年経とうとする頃、4歳上の兄が突然亡くなった。
 兄は、36年前に61歳で亡くなった父よりは、少しは長く生きたのだが、義姉、甥姪たちにとっては、そして本人にとっても短すぎる人生だったに違いない。
 そして、私も昨年父の年齢を超えた。

 4年前に書いたが、父の手記には帰国時の様子が、ナホトカから乗った「遠州丸」という船名、「伝馬船」で上陸したことしか書かれていないので、上陸後の様子が少しでも分かればという思いから、一度舞鶴を訪れたいと思っていたが、先月ようやくその機会を得た。

  出張の合間の短時間だったが、上陸地点を見下ろす丘の上に置かれている舞鶴引揚記念館とその敷地となる引揚記念公園に行くと、帰国から故郷に向かうまでのおおよその様子がうかがえた。
 上陸地点は、舞鶴湾の一番奥の北側に山を抱いた波静かな入江。入江に着いた引揚船から、はしけに乗り換え、現在は合板工場があるあたりの桟橋から上陸。受入れ施設で身体検査と、生前の父の話によると、抑留中受けた共産主義教育や思想のチェックなどを受け、帰郷を待ったようだ。


 舞鶴引揚記念館に入ると、まず目を引くのは、当時のソ連邦内にあった収容所の位置図。特に連邦中西部の内陸部すなわちシベリアの収容所が多いのが目立つが、父が約2年間を過ごしたタガンログは、下の地図上一番手前の黒海に連なるアゾフ海の湾奥の「ロストフ」とされている場所の近く、現在もたしかロシア軍の軍港があるたタガンログというところだ。
 床に貼られた大きな地図を見ると、はるばるユーラシア大陸を横断して来たというのがよく分かる。
 展示室に入ると、ラーゲリ(収容所)での厳しい生活をしのばせる手記などの展示も多いが、現地の身近にある材料ながらも丁寧に作られた麻雀パイ、収容生活に潤いを与えたであろうトランペットなども展示している。
 さて、父は昭和23年7月14日に舞鶴湾に到着した「遠州丸」から、上記の受入施設近くに上陸したが、検疫や様々な手続きや調査が行われたものと思われるが、手記には7月18日に郷里の熊本に到着したされている。




(引揚者に配布された「引揚援護の栞」の一部)

 舞鶴からの各地に向かう「引揚列車」の時刻表も展示されているが、昭和24年9月15日改正のもの(で、前年のダイヤがどうだったかは不明)だが、14:00に東舞鶴駅を発車し翌日の16:16に熊本駅着ということなので、7月17日の午前中まではのおおよそ2日間は舞鶴にとどまっていたことなる。
 
 父の手記は、帰国後記憶が新しいうちに書き留めておこうとしてできたものだが、引揚記念館には、抑留中に白樺の木の皮に書き溜めたものなどもあり、もう一度ゆっくり訪ねてみたいと思っている。
 また、抑留された方々の多くがすでに亡くなり、引揚記念館に所蔵されている資料の劣化(主に紙の資料)も進んでいることから、これはやはり、舞鶴市だけにお任せする問題ではなく、貴重な資料の保存のため協力しなければならないものと思いながら、資料館を後にした。


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